オペラの指揮と演出・2 | 孤独な音楽家の夢想

オペラの指揮と演出・2

(承前)

 

 改めてもう一度、あの経験を振り返れば、副指揮者として、「形を整える」ということ・・・に主眼を置いてしまったことが大きな反省点として浮かび上がる。

 もちろん、「形を整える」だけでも大変な作品ではあった。「初演」とは、誰にも完成した姿が分からないということだ。しかも、不可能であると誰もが思うものを、確実に可能にしていくのである。「楽譜」を「楽音」として「再現」する集中力と執念は、我ながら凄まじいものがあったと思う。しかし、そこには、決定的に欠落したものがあった。・・・それは、初演する者自身による作品の「新たな解釈」である。作品の意味を解き明かし、再構築すること・・・。

 

 このことは、「西洋芸術音楽」における作品演奏や舞台化において、最も重要なことかもしれない。

 楽譜を媒介とする「記された音楽」、「再現芸術」であるところの「僕たちの音楽」において、作者でないパフォーマー(台本作家や作曲者ではない演出家や指揮者、そして歌手や奏者、ダンサーなど)は、ただ、台本や楽譜に書かれてあるものを、そのまま再現するように演奏し、演じるのではない。それぞれのパフォーマーが、作品成立の経緯や物語の背景などを踏まえ、言葉や音符に隠された「本当の意味」を探り、それを「解釈」として内包しつつ、今まさに自身がそのことを考え出し、感じているかのように表現することが大切なのである。

 僕たちは、一流の作品には、明確な「意図」や「メッセージ」が込められている・・・と考えているのだ。一流の台本作家や作曲家は、「世界の成り立ち」を解き明かそうとしているはずである。それを言葉や音符に隠すのだ。

 パフォーマーが、その「本当の意味」を探り当てた時、腑に落ちるどころか、感動のあまり、ピョンピョン飛び跳ねてしまうだろう。世界の秘密を知ってしまったのだから・・・。ほとんど、「悟りを開く」ことに等しい。昔、ニュートンが、りんごの落ちたのを見て、目に見えぬ世界の法則を発見した時のように・・・。

 

 僕たちはそれを探るために、特徴的なモティーフやキャラクターといったものに、特定の意味を付け加えて「定型化」させ、また、思い切って個性を誇張させるように「デフォルメ」して、それらを新たに捉え直す作業をする。これは、単純化された「型」となる。

 例えば、ベートーヴェンの交響曲第5番「運命」第1楽章の冒頭「ジャジャジャジャーン」は、一体何を意味するのだろうか・・・。これは、単にリズムと音程であって、意味を持たない・・・と学者は言うかもしれない。しかし、この素材を聴いた者は、何かしら迫り来るもの、強く訴えかけてくるものを感じるだろう。それは、たたみかけ、重ねられ、強弱を変え、調性を変え、音色を変え、幾度も繰り返されるからである。僕たちには、あたかも、楽曲が物語を持っているように思えてくる。しかし、ベートーヴェンは、このモティーフについて、何も語ってはいないのだ。彼の想いはたくさんあったかもしれないが、それについて、数百ページに及ぶ論文を書いたわけではない。彼が残したものは、楽譜だけである。だから、僕たちはその楽譜から、彼の真意を読み解くわけである。何かそこに、込められているものがあるのではないか・・・、と。

 ・・・こうした「型」は、実は、その作品の中だけで完結しているのではないように思う。明確な根拠はないにしても、ほかの作品やさまざまな芸術、伝説、宗教、さまざまな学問、はたまた、歴史や社会現象といったものと深く関わり、それらにインスピレーションを受けて創作されているのは間違いないだろう。だからこそ、西洋の「芸術作品」が生まれるのである。「模倣」と「破壊」を繰り返してきた西洋の芸術作品の「普遍性」は、こういうところにあると思う。そうであるならば、複数の「型」が複雑に組み合わさり、絡み合うことは、そのひとつひとつに膨大な意味が含まれていることになり、それを前提とした新たな意味をつくり出すことになるだろう。

 

 以前、僕は、音楽をあまり好きになれなかった時期がある。それは、つまらない音楽――感覚的な音楽、気分や趣、情緒を現すような音楽――にしか、触れていなかったからかもしれない。いや、触れようとしなかったのか、もしくは、触れたとしても理解することができなかった。・・・僕は、音楽を、いや西洋を何も、理解していなかったのだ。

 西洋芸術音楽の奥行きは、計り知れないものだ。例えば、キリスト教音楽に触れてみると、よく分かる。西洋の作曲家は、相当の覚悟をもって、宗教作品を書いているはずである。なぜなら、それがステイタスになるからではない。あまたの信者の納得と感動、そして、神秘的体験を生まなければならないからである。それは、キリスト教を知らない作曲家が、キリスト教の作品を書くのとは訳が違う。パウロが「聖霊」に導かれて「書簡」を書いたように、先人たちが「聖霊」に導かれて作曲した膨大な数の傑作群があるのだ。後世の作曲家は、当然それを踏まえ、そしてそれを越えなければならない使命を持っている。先人たちの傑作を知らない、分からないでは話にならない。それが歴史であり、文化というものである。

 このことは、西洋の人たちが、その起源の多くを「エルサレム」「ローマ」「ギリシア」に置いていることと関係しているのだろう。何千年、はたまた何万年のはるかなる旅である。(日本人が、起源の半分を、朝鮮半島、中国大陸、そして天竺に見出すように・・・。)もちろん、そのすべてを知ることはできない。しかし、この深淵に目を向けた時、西洋の奥深さ、芸術音楽の奥深さ、そして面白さに、はじめて気付かされるのである。

 

・・・つづく・・・

 

by.初谷敬史