バチカン・1 | 孤独な音楽家の夢想

バチカン・1

 お盆にはじまったオペラから、11月のローマ公演を終えるまで、一日も休みなく働いてきて、12月に入ってとうとう風邪をひいた。季節が深まるとともに、疲労が徐々に身体から抜けなくなっていくのが自分でも分かるほどで、身体がずしりと重く、硬く、そして最後には、すっかり冷えきってしまったようだ。すこし精神的にも落ち込んでいて、僕としては珍しく、気持ちが後ろ向きになってしまった。こころに隙間風が吹くように思い、何か人生の底を感じる気さえした・・・。こころと身体は常に一体であり、どちらから崩れたのか自分ではよく分からないが、とうとうバランスを崩してしまった。

 ・・・しかし、このことは覚悟の上だった。僕にとってはこれまで経験したことのない大きな挑戦であり、それを成し遂げるために、すべてを投げ打ったのだから・・・。自分を顧みることなしに、全体の成功のために・・・。そこには失うものは何もなく、たくさんの反省はあるが、後悔はない。それよりも、それで得たものの大きさは計り知れず、いまとなっては、その過程、ひとつひとつに対して、自信や誇りさえ感じる。たとえそれが不器用で、盲目な姿勢であっても、自分の決めた道に誠を尽くそうと努力する精神が、あの頃の僕の一日一日を生きていく芯を支えていたのかもしれない。(・・・まるで、カズオイシグロの長編小説『日の名残り』の執事、スティーブンスに似ている・・・と、自分でも可笑しく思える。笑)

 僕は体調こそ崩したものの、この半年で得た貴重な体験を元に、おぼろげながら徐々に上向いて行くと信じている。なぜなら、この半年を経験する前と、後では、自分の能力やモノの見方が格段に変化したと思えるからだ。まるで、サナギから蝶へと変容したかのように・・・。もしかしたら、これが、30歳代から40歳代へ移行するために、必要な儀礼だったのかもしれない・・・。

 

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 年末のイベントを終え、改めてローマのことを振り返ってみると、ずいぶんと、僕は落ち着いていたように思える。ローマで落ち着いて・・・などと、ただでさえ浮き足立ちがちな僕には、到底考えられないような台詞である・・・。しかし、それもそのはず。実は、ローマはこれで、四度目なのである。あたかも、この11月に、僕がバチカンで指揮することが、遠い昔から決まっていたかのように・・・。・・・僕はローマに、不思議な縁を感じる。

 

◆ローマの路地裏

 

 一度目の旅は、18年前の1999年2月。芸大4年生の時。親友の向井くんとふたりで行った卒業旅行だった。ローマ〜フィレンツェ〜ミラノの8日間の旅。彼が申し込んでくれたこのツアーは、航空券とホテルだけを旅行会社が予約してくれるというもので、海外旅行が初めての22歳のふたりにとって、この旅行は大冒険であった。イタリアに放り出されて右も左も分からず、行く先々であたふたしてしまい、何とも愉快な珍道中となった。もちろん当時、スマートフォンもワイファイもなく、日本で購入したガイドブックとバカチョンカメラを片手に、勘を頼りに旅をしたのだ。でも、僕らふたりは、いいコンビだった。(・・・この旅での経験は、僕らのその後の人生にとって、とても重要な意味をもっていたことは間違いないだろう。)

 

 羽田から関西空港、そしてパリで乗り継ぐ格安の飛行機。ローマ「レオナルド・ダ・ヴィンチ国際空港」に着いたものの、ローマ市内へはまだ遠く、自力で電車移動しなければならなかった。僕らは特急のチケットの買い方も乗り方も、まるで分からなかった。何とか特急に乗ってローマの玄関口「テルミニ駅」に着いたのは、もう夜も遅くなっていた。何となく駅は物騒で、街も陰気な雰囲気がして、暗い中を不安な気持ちを隠し、大きなスーツケースを石畳にゴロゴロ転がしらがらホテルを探したのは、いまでもよく覚えている。

 イタリアで初めて食べたパスタの味は、いまでも忘れない。もう夜も遅かったので、僕らはテルミニ駅近くの地元の人が行くようなリストランテに入り、イタリア語のメニューの中から、ガス入りの水と、ポモドーロ(トマト)のパスタを片言のイタリア語で注文した。ガス入りの水を初めて飲みながら、すこし得意げになっていると、パスタが運ばれてきた。僕は驚いた。トマトベースの具のないスパゲッティ。バジルも粉チーズもかかっていない。ニンニクの香りすらしなかった。確かにトマトのスパゲッティを頼んだのだが、まさかトマトのみであるとは・・・。もちろんイタリア産のトマトや麺は美味しかったわけであるが・・・。スペシャルな物にありつくためには、メニューをよく読まなければならない訳だが、いちいち辞書を引くのも面倒だし、恥ずかしい。(いまでは、日本でも本格的なイタリア料理店が増えたので、イタリアに行ってもたいてい検討がつくけれど、当時は、イタリア料理に対する知識や経験がほとんどなかった。)具材が入ってなかったので、大満足はしなかったけれど、ガイドブックに載っていた通りに、チップをたくさん置いてきた。・・・そのチップが妥当な金額だったかどうかは、いまでも分からない。

 

 翌日は丸一日、ローマで自由観光。僕らがはじめに向かったのがバチカン「サン・ピエトロ大聖堂」だった。朝一であるのに、世界各地からの巡礼者や観光客で入り口には長蛇の列ができていた。しばらく並んでから、いざ中に入ってみると、あまりのスケールの大きさとあまりの装飾の美しさに驚いてしまった。(・・・この時、僕の中にはじめて、時間と空間の4次元の広大な内的空間が一気に広がっていき、世界のあらゆることを受け止める準備が整ったのだと思う。いま思うと、この無垢の内的空間は、もしかしたら大聖堂の大きさと同じなのかもしれない・・・。)

 僕はこの空間に、ある特別な霊感を感じた。・・・大聖堂の遥か上方の窓から降り注ぐまばゆい黄金の光が、広い堂内の古い空気の層をゆっくりと写し出していた。それは時が止まっているかのように静かで、且つ、美しかった。そう感じた次の瞬間、僕は吸い込まれるように、その永遠の光の中に身を投じていた。・・・すると、ジャンパーやマフラーがするすると僕の身体からはぎ取られていき、神聖な空気に身体がふわりと浮き上がったように感じた。僕はそこで感じたのは、人の温もりだった。そしてそれは、人のまごころに似ている・・・と思った。ここを目指し集ってきたあらゆる人種の、あらゆる人びとの人生と、持ち越された悲しみと、幾多の苦難と、敬意と、祈りと、赦しと、感動と、涙とが重なり合っている・・・。それらは幾重にも重なった空気の層となって、「神の国」に行けるその時を、ここでじっと待ち続けているのだろう。・・・ここは、世界のどこにもない、特別な場所・・・。

 聖ペテロの墓の上に立つ「大天蓋(パルダッキーノ)」は、僕ら観光客は、遠くからしか眺めることはできず、その一番奥にある祭壇「聖ペテロの椅子」には、近づくことすらできなかった。(・・・それもそのはずである。この時の僕は、ペテロが一体どんな人物であり、どのような人生を送ったのか、まったく知らなかったのだから・・・。)

 

 バチカンを出て、「スペイン広場」へ。僕らはかなりの「おのぼりさん」で、映画「ローマの休日」で見たシーンを思い出しながら、きゃっきゃと騒いでいた。案の定、「ナカータ!ナカータ!」(当時、イタリアのリーグで活躍していた中田英寿選手。ちなみに、彼は僕らと同い年。)と陽気に声をかけてくるジプシーに、すぐに取り囲まれ、当時流行していたミサンガを、手早く手首に付けられた。その代金として、お金をしつこくせびられたが、ミサンガを何とか引きちぎって、ふたりで走って逃げてきた。

 「トレヴィの泉」でコインを肩越しに投げ、「サンタンジェロ城」で「トスカ」の悲劇を思い、「ヴェネツィア広場」でローマ人に不人気だという大仰な「ヴィットーリオ・エマヌエーレ二世記念堂」を仰ぎ見、古代ローマの遺跡「フォロ・ロマーノ」でカエサルに思いを馳せ、殺気漂う「コロッセオ」で静かに手を合わせ、そこまでで相当クタクタになっていたが、最後の力を振り絞って「真実の口」まで辿り着いた。・・・途中でジェラートを食べながら、日が暮れるまで僕らはローマ中を歩き回った。

 そこから自力でフィレンツェへと移動した・・・。

 

◆フォロ・ロマーノ

 

◆ヴィットーリオ・エマヌエーレ二世記念堂

 

◆コロッセオ

 

 二度目の旅は、2001年12月。ローマ〜シエナ〜キャンティ〜フィレンツェ〜サンレモ〜カンヌ〜モナコ〜ニースの9日間の旅。このツアーに参加したのは、実は親戚のおばさんが、格安のツアーが抽選で当たったから、自分の代わりに・・・と、声をかけていただいたのがきっかけだった。これも、向井くんとふたりで参加した。この旅は、移動のすべてがツアー専用バスだったので、とても楽だった。しかも、現地では自由時間が思ったよりもたくさんあり、ふたりで旅行しているような気分だった。

 ローマでは、もちろんはじめにバチカンへ向かった。2年前に一度行ったのだから、まだ行ったことのない所へ観光したほうがいい訳であるが、なぜか、「サン・ピエトロ大聖堂」に挨拶をしなければ気が済まないような気がしたのだ。やはり長蛇の列に並んで堂内に入ると、一度目と同じ感覚を覚えた。今回は記念に・・・と、大聖堂の「クーポラ(ドーム)」に頑張って上り、ローマを一望した。僕はまだ、世界について何も知らなかったので、「すべての道はローマに通ず」などと言いながら、まるでローマを掌握したかのように勝ち誇った気持ちになった。しかし、街に出ると、僕らは、またしても変な人に、追いかけ回された・・・。30分くらい逃げ回っただろうか。最後は広場にいた軍人の側に近寄って、彼の影がなくなるのを待った。・・・当時の写真を見ると、僕らはまだ若く、とても可愛らしかった。笑

 クリスマスは、地中海を臨む南仏「コート・ダジュール(紺碧の海岸)」の美しいニースで過ごした。広場に簡易に設えられたあまりにも高速で回転する愉快な観覧車に、ふたりで乗った。僕らは日本から遠く離れた地でぐるぐる回り、聖なる夜と青春とを謳歌していた・・・。

 

・・・つづく・・・

 

by.初谷敬史