新春に・3 | 孤独な音楽家の夢想

新春に・3

(承前)

 

 穏やかな元旦に、家族でお墓参りをした。

 お墓参りは、とても気持ちがいい。先祖のお墓に行くと、お盆の時のような雰囲気――ゆらゆらと穏やかで、うっすらと暑く、ベールのあちらで何とも涼しげ――で、いつも僕たちを快く迎えてくれる。そのほほ笑みは、肉親ならではの温かさである。僕はほっこりとこころが弛み、安心して現実へと戻っていく。

 

 あまりにも陽気がよかったし、気分も晴れやかだったので、母の希望で、祖母方の実家のお墓にいってみた。僕はそこに行くのは、はじめてだった。

 僕は子どもの頃から「初谷」の姓を名乗っているし、産まれてこの方、初谷にゆかりのある土地に住んでいるので、どうしても父方の初谷のイメージが強いのであるが、僕の半分は、正真正銘、母方にある。・・・昨年、30数年振りに、母の祖父方の実家がある新潟へ行ってきたこともあり、そのことを強く思うようになった。

 僕のルーツは、どこにあるのか・・・。僕の2分の1、4分の1、8分の1・・・と可能性を探っていくと、想像だにできない方々の生と魂と想いを、我が身に引き受けていることに気付かされる。

 

 そのお墓は、墓地になっている斜面の一番上にあった。急な坂道を一気に登っていったので、僕らはぜーぜーと息を切らした。お墓の前に立った時、先祖代々の墓石の横にたつ、ひと際、立派な墓石が何であるか・・・、僕はすぐに理解した。・・・おそらく、遺骨はここにはないであろう。・・・それは、戦争で亡くなった方のものである。

 僕は墓石を隈なく丹念に調べ、刻まれた文字を確かめた。「昭和19年1月16日 北緯23度3分 東経133度12分」と、亡くなった日付と、亡くなった地点が読み取れた。・・・満州から南方へ転進する途中、おそらく、兵士を乗せた輸送船が、アメリカ軍の攻撃にさらされてしまったのだろう。年代を考えれば、その近海で、大規模な海戦があったとも考えにくい。ともすれば、潜水艦の魚雷によって沈められたのかもしれない・・・。

 手元に明確な資料は何もないが、この文字を頼りに、僕なりに調べてみようと思った。

 

 当時の戦況を考えると、日本軍は相当に追いつめられていた。満州に駐屯していた陸軍の師団が、海軍の管轄であった太平洋の島々に、大量に移動しなければならなくなるほど・・・。

 昭和16年12月「真珠湾攻撃」以降、破竹の勢いで太平洋地域の島々を占領していった日本軍のターニングポイントとなったのは、昭和17年6月「ミッドウェー海戦」と、同年8月からの「ガダルカナル島の戦い」であった。海上でのこの敗戦は、海軍が誇る6隻の空母のうち、主力空母を一気に4隻も失い、搭載機も、優秀なパイロットも同時に失ってしまう大損害だった。海軍は、実質、ここで太平洋での制海権、制空権とも、ほとんど失ってしまったと言ってもいい。

 陸上での快進撃も、ガダルカナルで、完全に終止符を打たれる。この時、「玉砕」の名は、まだ日本軍で使用されていなかったそうだが、ガダルカナルに送られた部隊は、実質、全滅に近いものであった。しかも、食糧の輸送作戦すら上手くいかず、そのほとんどは「餓死」であった。ガダルカナルの日本軍撤退は、昭和18年2月だった。

 このふたつの戦いを経て、太平洋で主導権を握ったアメリカは、日本を降伏させるための最後の前線基地とすべく、そのターゲットをマリアナ諸島(グアム島・サイパン島・テニアン島)においた。ここを拠点にすれば、大型爆撃機B29によって、日本のほぼ全域を爆撃することができたからである。逆に、日本軍は、日本の本土防衛のため、そして戦争を継続していくために、昭和18年9月、「絶対国防圏」を御前会議で決定した。マリアナ諸島を、絶対に守らなければならない布石として位置付けていたのである。

 チェスター・ニミッツ提督率いるアメリカ海軍は、マリアナ諸島攻略のために、ガダルカナルから中部太平洋を反時計回りで、日本軍守備隊の守る島々を、ひとつずつ攻略していながら北上していった。(一方、マッカーサー大将率いる陸軍は、ガダルカナルから時計回りで、ニューギニア、ミンダナオ、フィリピンという経路を辿った。)

 海軍はまず、世界最大の環礁で、世界最大の艦隊泊地をつくることのできるマーシャル諸島の要「クェゼリン島」を目指した。その足掛かりとして、ギルバート諸島「マキン島」と「タワラ島」から攻撃をはじめた。日本軍守備隊が必死に抵抗するも、昭和18年11月23日に玉砕。そして、同年12月5日に「マーシャル諸島沖空戦」となり、クェゼリン島の日本軍が玉砕したのは、昭和19年2月6日だった。・・・クェゼリン島を含むマーシャル諸島は、当時、日本の「委任統治領」であった。日本の領土が、アメリカ軍によって占領されたのは、この時がはじめてだった。

 その後、「トラック島」、「サイパン島」、「テニアン島」、「グアム島」、「ペリリュー島」・・・と攻略され、次々に日本軍は玉砕していくこととなる。

 

 墓石に刻まれた日付は、昭和19年1月16日。・・・昭和19年1月30日からはじまる「クェゼリン島の戦い」の前夜、「絶対国防圏」の構想にしたがって、満州に駐屯していた陸軍の師団を、秘密裏に南方へと転進させていた時期とちょうど重なるだろう。

 では、この若者は、どの師団に属していた可能性があるのか・・・。栃木県で編成された師団は、主に「第14師団」と「第51師団」がある。

 「第51師団」は、昭和16年に満州へ派遣されるも、その後、昭和17年にニューギニア戦線に転用され、ラバウルに進出している。その後、「ダンピールの悲劇」と言われる「ビスマルク海海戦」や「ラエ・ワラモアの戦い」に破れ「サラワケット越え」と言われる撤退の悲劇を経験した。昭和19年当時、師団は壊滅状態であっただろう。

 では、「第14師団」はどうか・・。この師団は、昭和初期から満州に出征しており、昭和18年、「絶対国防圏」の構想により、満州からパラオに、随時、転用された。・・・満州から南方へ、転進途中に輸送船が撃沈させられたとすれば、まさに、亡くなった日付と符合する。

 

 パラオ・・・。僕の行ったパラオである。・・・そう、僕のパラオは、まだ終わっていない・・・。天皇陛下が一昨年4月、僕らの行った激戦地「ペリリュー島」へ慰霊に訪問され、僕は本当にありがたい気持ちで一杯だった。僕は「パラオ慰霊の旅」の続きを書こう・・・と、何度も思ったが、なかなか手につかなかった。完全に「ガダルカナル」の二の舞を踏んでいる。・・・しかし、この若者の墓石が、また僕を、パラオへと結ばせてくれた。ありがたいことである。何年掛かってもいいので、最後まで書きたい・・・と思っている。

 

 第14師団は、主力をパラオ本島「バベルダオブ島」に、「宇都宮歩兵第2連隊」(「宇都宮歩兵第15連隊第3大隊」を含む)を「ペリリュー島」に、「宇都宮歩兵第59連隊第1大隊」を「アンガウル島」にそれぞれ配備した。

 ・・・アンガウル島は、ペリリュー島のすぐ先にある島である。アンガウル島にも慰霊に行く・・・という話が、ロクダンで持ち上がっていたが、僕たちの訪問の直前、台風が上陸し、大きな被害がでてしまったということで、僕たち慰霊団は、残念ながら行くことが許されなかった。しかし、僕は事前に、栃木県の部隊がこの島で死闘を繰り広げ、圧倒的なアメリカの戦力の前に、全滅した・・・ということを調べていたので、真っ青な海の向こうに見えるアンガウル島に向け、僕はひとり、ペリリュー島の浜辺から、祈りを捧げた・・・。

 ペリリュー島とアンガウル島の戦闘を振り返ってみる。

 昭和19年9月15日、アメリカ軍がペリリュー島に上陸作戦を開始。ペリリュー島守備隊の「水戸歩兵第2連隊第2大隊」と「高崎歩兵第15連隊第3大隊」等が応戦。9月16日、アメリカ軍がペリリュー島の飛行場を制圧。

 9月17日、アメリカ軍がアンガウル島に上陸作戦を開始。「宇都宮歩兵第59連隊第1大隊」等が応戦。9月19日、アメリカ軍がアンガウル島の中心部を制圧。

 9月22日、「宇都宮歩兵第15連隊第2大隊」がペリリュー島へ敵前上陸を敢行し、守備隊に合流。

 10月19日、アンガウル島守備隊、全滅。11月24日、ペリリュー島守備隊、全滅。昭和20年、バベルダオブ島の主力部隊は、終戦を迎える。

 ・・・しかし、墓石の主は、この戦闘に加わることなく、それどころか、パラオに渡ることもできず、海の藻くずと消えてしまったのだった。

 

「北緯23度3分 東経133度12分」・・・ここは、どこか・・・。

 北緯23度は、ちょうど台湾を通る(赤道に平行する東西の)線である。東経133度は、ちょうど愛媛県を通る(北極と南極を結ぶ南北の)線。それぞれの線を東と南に伸ばし、交差する点が、亡くなった地点ということになる。・・・それは、沖縄諸島の東部に広がる「大東島」の東の海域。(昭和19年1月16日に、その近辺で沈んだ輸送船を調べれば、もう少しはっきりしたことが分かるかもしれない・・・。インターネットで調べると、「戦時微用商船被害一覧」というページがあり、昭和19年1月16日、陸軍、「丁抹丸」(5869トン)、白洋汽船、雷撃、沖大東島南東沖とある。この記録が正しければ、これに乗っていた可能性が高い。)

 ・・・僕は、そこまで調べたところで、胸に熱く込み上げてくるものを感じ、自然と涙が溢れ、こぼれ落ちた。「無念・・・。」・・・そのひと言が、突然、どこからか聞こえてきたのだ。・・・その声の重みと、深さと、静けさと、苦しみと、言いようのない悲しみに、僕の魂は素直に反応し、そして打震えたのだった。僕は涙が止まらなかった。

 ・・・彼は、自らの生を、命を、全うしたかったのだ。戦いに行ったのに、戦わずして、海に沈んだ。仲間もろとも・・・。完全に、無駄死にだった。彼は、ふるさと「足利」に、家族を残してきたのだ。もしかしたら、将来を誓い合った大切な人も残してきたかもしれない・・・。彼は、ふるさとにもう一度、帰りたかったのだ。しかし、想いだけを残して、彼は海の藻くずとなった・・・。

 誰も、彼の最期を知らないし、骨さえも、ふるさとに戻ってくることができない。誰も、彼が亡くなった海で、弔うこともできない・・・。「無念・・・。」もう、彼を知る人物は、この世からいなくなってしまった。もう彼は、誰からも思い出されることがない・・・。

 何のために、彼は戦争に行き、何のために亡くなったのだろうか・・・。彼には、幸せに暮らす権利があった。美味しいものを食べ、酒を呑み、笑い、泣き、言いたいことをいい、キスをし、汗をかいて働き、新聞を読み、休みに出かけ、風呂に入り、夢を見て、子どもをつくる・・・。そんな他愛もない日常を、家族とともに、友人とともに、そして、大切な人とともに・・・。

 彼は、僕に、こんなふうに語っているように思えた――家族が、幸せに暮らしていることが、僕の幸せだ・・・、と。

 

 僕は、この若者の分まで、精一杯、日常を生き抜かなければならない・・・。そして、できることならば、いつの日か、彼を弔ってあげたい・・・。

 

・・・つづく・・・

 

by.初谷敬史