『ナディーヌ』の13年・2 | 孤独な音楽家の夢想

『ナディーヌ』の13年・2

(承前)

 

 先日、39歳の誕生日を迎えた。(文字にすると、なかなか深い趣がある・・・笑)

 ・・・この日は、「ナディーヌ」の劇場入りの日で、舞台稽古の初日だった。嬉しいことに、練習後、舞台にみんな集まって、サプライズでお祝いをしてくれた。三澤先生のミュージカルは、いつもこの時期にあるので、これまで何回お祝いをしてもらっただろうか・・・。だから余計に、初演から12年経った39歳での『ナディーヌ』というものを意識してしまうのかもしれない・・・。

 

 39歳・・・。人生の折り返し地点がどこにあるのか分からないが、あと10年、20年・・・と考えた時に、確実に自分の死へ向かっている・・・と実感する年齢になってきた。しかし、そう考えるならば、これから訪れる40代は、とても充実し、楽しいものになるのだろう・・・と、僕はウキウキしてしまう。

 ・・・12年前の父の死を経験して、死は僕にとって、とても近しい存在になった。死は、生命としてごく自然のことで、時がくれば誰にでも平等に訪れる。自分の終わりの日が決まっているのか、決まっていないのか分からないが、自分の「誕生日」があるのと同様に、どこかで必ず終わりの日を迎える。

 そのように限られた人生であるなら、では、どのように生きていくべきか・・・。

 

 ・・・僕は、あまり人に迷惑をかけずに、自分の気持ちに正直に向き合い、何か大きなものに守られながら、ごく僅かな人と仲睦まじく、楽しく穏やかに暮らせればいいと思う。・・・ただ、自分自身を満足させたい・・・という気持ちは大きい。自分の目指すべき方向で、自分の納得のいく境地まで、自分を高めていきたいと思っている。

 僕の満足は、「分かる」「分からない」で決まるのではなくて、「できる」「できない」で決まるような気がする。しかも、それは幾つか種類があって、自信を持って「できる」、自信がなくて「できない」。自信を持って「できない」、自信がなくて「できる」・・・。この中で、自信を持って「できる」でなければ、僕は到底、自分に満足することはできないだろう。

 

 僕はもともと、「できる」タイプの人間だ。しかし、いつの頃からか「できない」タイプに変わった。いや、自分でそんな風に、設定し直したのかもしれない。・・・このことは、僕の人生において大きな転換点だった。僕の人生は、そこから始まったと言ってもいい。(人は、決定的に打ちのめされ、自分で心底、それに気が付かない限り、そう変われるものではない・・・。)

 

 「できる」と思い込んでいた自分が、ある時、本当は「できない」と自覚したその挫折感・・・。その打撃は、かなり衝撃的なものだった。(僕の挫折にはバーバーの「弦楽のためのアダージョ」がよく似合う。僕の人生には、この楽曲が通奏低音のように静かに、また低く厚くうごめくように、そして何か無限のものを希求するかのように、坦々と流れているかのようだ・・・。)

 僕はその時、自分は自己以外が「空っぽ」であると、痛感した。そして、いろいろなことに対して、もっと真面目に取り組んでくればよかったと後悔した。僕は不真面目だったのだ。・・・僕はそれまで、自分のできうる範囲で、表面的に取り繕ってきたにしかすぎなかった。自分自身を直視しようとせず、根拠のない「できる」という思い込みだけで、自分を偽ってきた。結果、すべてが上滑りをしてしまって、何も自分の身になっていなかったように思う。

 だから、「できない」僕は、苦労をして、自らの手で目の前にあるものを、ひとつひとつ掴んでいく必要があった。

 

・・・つづく・・・

 

by.初谷敬史