つづき。

 

ちなみにいただいたブログの主さんは

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映画監督 1961年生まれ。南カルフォルニア大学映画科に学ぶ。映画監督デビューは「ストロベリーフィールズ」(2006)

その後「「青い青い空」(2010)「朝日のあたる家」(2013)を監督。

男性。

なので男目線で境界性パーソナリティ障害を書いている所もあります。

 

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大切なことを取り上げていなかった。それは患者は往々にして、相手の気を引くために、相手を思い通りに操るために、あることをする。

これら症状に「へーーーそうなんだ」と思った人。或いは「それって病気じゃなくて、性悪女ってことじゃない?」とか感じた人もいるだろう。

だからこそ、この病気は理解されずらく、問題や被害が拡大するのだが、これは聞いたことがある人が多いはずだ。患者は女性に多い。

そして特定の相手をターゲットにして賞賛、応援して急速に近づく。親密な関係となると自身の辛い過去を告白する(妄想であることも多い)それに共感すると、さらに深い関係に陥る。
 

やがて、患者はあれこれ無理をいうようになる

 

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「境界性パーソナリティ障害」の記事にこんなコメントが来た。

 「患者は愛を求めています。だから、それには愛で応えるべきです。そうすれば安心して敵対心を持ちません。私のまわりにもその種の方がいますが、距離を置きながらうまく付き合っています。愛こそが大事だと思います」

それに答えて別の方がこんなコメントを書き込む。

 「素晴らしい。それが最高の解決法です。傷つけ合っても何も得るものはありません。愛を持って接することが大切。私も見習いたいと思います」

 

●申し訳ないが、両方を削除させてもらった。

非常に問題があり、誤解が広がるものだったからだ。

コメント1の方。

パーソナリティ障害を多少勉強されているようだ。が、拡大解釈して、きれいごとにしてしまっている。本当の大変さを知らない人が安易な解釈で無責任なことを言っているところがある。さらにコメント2の方が「素晴らしい」と思ったように、感銘を受けてしまい間違った考え方が広がってしまうのを懸念したのだ。

 

 コメント1の方はそばにパーソナリティ障害の方がおり、うまく付き合っているように言うが、実はターゲットにされていないだけではないだろうか? 或いは「取り巻き」にされているのかもしれない。患者は誰に対してでも攻撃的という訳ではない。自分が取り憑き、コントロールしようとする相手にのみ攻撃的であり、周りの人や「取り巻き」に対しては好意的であり、健気な姿をアピールする。

 それをコメント1の方は「うまく付き合っている」と解釈してはいないか? そして、たいていの場合、一般の人はその人が「患者」だとは気づかない。問題が起きても「変な人」と解釈する。だが、コメント1の方は気づいた。病気の原因が「愛情の欠如」であることも知っていた。だから、距離を置いて付き合った。毛嫌いせずに交流をした。それを「愛」を持って接するといってはいないか?

 知識があるだけに「うまく付き合っている」と解釈。でも、「愛を持って」という言葉を使うが、コメントには「愛」を持って具体的にどう接しているか?は書かれていない。やはり、毛嫌いしていないことを「愛を持って」と表現しているように感じる。

 そういう表現をすれば美しいイメージが生まれる。

だから

コメント2の方は「素晴らしい」と書き込んだ。が、コメント1の方は患者だと認識しているので距離を置き、付き合っているだけかもしれない。それを賞賛する2の方。

もし、それらコメントを読んだ人が、その種の人から攻撃を受けたときに、「愛を持つべきだ」と相手の要求を受け止めたり、優しさを見せれば大変なことになる。

 

そんな誤解を生むコメントなのだ。だから、削除させてもらった。精神病について書くのはむずかしい。

 

ただ、この病気に関しては、ほとんどの患者が同じ行動パターンを示す。

ターゲットを探して、急激に距離を縮め、相手の心に取り入り、取り憑く。

逆らおうとすると、事前に取り込んでおいた「取り巻き」に攻撃させ、自分が犠牲者であるように振る舞う。ふとしたことで、あれほど親愛の情を示していた人が手のひらを返すように攻撃を始めるというのもこの病気の特徴。かと思うとまた親しげに寄って来る。僕も、その種の患者から被害を受けたことがあるが、同様の行動パターンだった。

 

相手が病気だと分かっても怒り心頭。反撃して思い知らせてやりたい!と思うのが人の心理でもある。
と、そのコメントを読み、思い出したのが、映画「セブン」

 キリスト教が禁じる7つの大罪を犯した市民を何の恨みもないのに殺してしまう事件を描いていた。最後に残された大罪は「怒」それを仕掛けられたのは主人公である刑事(ブラッド・ピッド)。つまり犯人はブラピを激怒させることで、犯罪を完結させようとしているのだ。

 さらに激怒して犯人を殺せば、それは犯人と同じレベル。職務として怒りを押さえて逮捕せねばならないのに、怒りに任せて殺してしまう。彼に犯人を断罪する資格はなくなる。

 結果、ブラビは犯人の思う壷に嵌るのだが......凄い物語だと思えた。

これまでのアメリカ映画は市民を殺した無慈悲な犯人を追いつめ、ぶち殺すことで「めでたし、めでたし!」というものがほとんどだった。が、「セブン」の凄いところは、犯人を殺したら負けなのである。感情を爆発させ、職務を忘れ、人の命を奪う=殺人鬼と同じ。ということが証明されてしまうというテーマなのだ。

 

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映画監督のブログなのでご容赦を(*^^*)