明治時代に発生した足尾銅山から流出した鉱毒は日本における公害問題の原点とも言われ、その被害と責任を国に訴えた中心的人物が田中正造翁であった。 翁の死後遺骨は、生誕地の佐野市小中や被災地谷中村をはじめ関係する6カ所に分骨埋葬された。そのうちの一カ所が北川辺にあり、北川辺西小学校の校庭に隣接した地(写真)に埋葬されている。毎年稲の刈り入れが終わる10月4日に、地域の関係者によって法要が営まれ遺徳が偲ばれている。