2023年3月で、21年続けた仕事を辞めた。

 副腎がん摘出術後補助化学療法で飲み続けているオペプリム(ミトタン)の副作用からか、不調が重なり、自分の思うように仕事をこなせないことが辛かった。頭が回らず、程々にこなせる仕事かどうか、という見極めをしながらが苦しかった。

 病気のことを忘れられる時間だったはずの仕事が、体調と向き合うことのウェイトが大きくなった。

 仕事上こうしたい、と思うとあまりセーブができないという自分の特徴が、10年以上経っても変わらなかった。仕事へのスタンスは変わらないのに、思うように仕事はこなせないから残業が増える。残業代をもらうことが申し訳なくなった。

 無理ができない体調を配慮してなのか、年次が上がったからなのか、自分が希望する仕事を任されなくなった。

 仕事そのものへのエネルギーよりも、職員同士の人間関係に気を遣うことに消耗していた。

 あと何年生きられるか分からない。このままオペプリムを飲み続けて長生きできたとしても、将来どのくらい動ける身体でいられるのか分からない。老後というものが自分にはないかもしれない。自分の稼いだお金で好きなことができるのは、今のうちなのではないかと思った。

 仕事でヘトヘト、イライラばかりしている母親が、娘の中の母親像で終わるんじゃないか、と怖くなった。

 癌が再発した病床で一気に書くつもりだった手記が、一向に再発しないから2017年に書き始めたものの、やはり一向に進まない。どんどん記憶が薄れていく。しっかり書く時間が欲しかった。

 希少がんの当事者として、自分にしかできないことがあるんじゃないか。仕事をしながら、更に活動の幅を広げることができる気がしなかった。

 尊敬する先輩が亡くなった44歳という年齢を、この仕事を続けながらでは越えられないんじゃないかと、ほぼ妄想のような思いがあった。

 

 仕事を辞めた理由を挙げると、だいたいこんな感じだろうか。

 今は書き表せない、色々な思いが他にもあるが、それにこだわっていると進まないのでこれくらいにしよう。

 

 とても好きな仕事だったし、自分としては自分の能力を生かせる面がある仕事だったと思う。

 なのに辞めた。

 求められることは多かったけれど、その分、給料も福利厚生もとても恵まれていた。

 なのに辞めた。

 辞めてみて、自分のアイデンティがこれ程まで仕事に占められていたことにつくづく圧倒されている。

 後悔が全くないと言ったら嘘だけど、自分と向き合うためには必要な決断だったと思う。あのまま続けていたら、自分を大切にする、ということがどうしてもできなかっただろうとも思う。

 そして、辞めてみて半年以上経ったけれど、ずっと書きたいと思っていた病気に関する手記にはやはり手がつかなかった。

 私は、役割期待がないと動けない人間だと痛感した。誰かのためなら動けても、自分のためだと難しい。手記は、娘のために残そう、というのが最初の発想だったが、少し書いただけで、すぐに自分のために他ならないことにすぐ気づいた。

 手放しにやりたいと思えることなら違うけど、手記はかなりのエネルギーを持っていかれるし、やはり辛かった過去と向き合うのは怖い。やりたいことのはずだけど、仕事に行く前のような気分になってしまう。

 このままだとどんどん記憶が薄れていくばかりなので、日々の体調を記録しつつ、過去の記憶を呼び起こして残す作業が必要だと思い、このブログを始めることにした。

 

 副腎がんはあまりに珍しいし、自分の治療の経過をどれだけ人と共有できるか分からない。

 ただ、治療のために自前のコルチゾールが出ていないこと、それを薬で調整していること、仕事をしながらどんなエピソードがあったのか、なんてことが書けたらいいな、と思う。

 

 手記にも向き合えるよう、まず始めてみないと。