平成十二年 (2000) 年越し版
平成十二年十月、それまで東大病院に通院しながら頸椎症の経過を観察していたのだが、いよ
いよ 右足の動きに鈍さを感じるようになって 右手指のしびれが左手にも加わり、さらには腕
の肘付近まで「つーん」とした痛みを 覚えるようになっていたが、その時点で「次は 右足に
異常が来てさらに左足に来るだろう」と宣告されていたものである。
今まで首をプロテクターで保護し経過を見てきたのだが、結局 症状の進行は止まらずに進んで
いるということになる。足を引きずる歩行を見た医師は「手術をしますか」という。 痛いだけ
げはなく小走りは出来ないし、階段でつまずくことが多くなる状況なので手術を決断した。
家でほとんど寝ている高齢な親父は「自分がこんな大変な姿だから手術は延べてくれ」という。
間もない命だからと云いたいようである。幸い 親父を診てくれている診療所の先生が「息子さ
んの状態のほうが大変なのだ」「手術すれば治るのだから手術させなさい」と云ってくれた。
親父の病状は心配するほど緊急性はないという事になる。私の意思と先生の助言で親父も納得
してくれた。正式に手術を申し出たが 予約が混んでいて手術は一ヶ月ほど先になるという。
入院が十一月三十一日、手術が十二月三日となった。担当医師は外来の五島先生から手術専門
であり病棟責任者の星地先生となった。
入院の際には 誓約書を取り交わした。 真面目に心配すると署名など出来ない内容の書類なのだ
が、極めて可能性の低い万一の時の病院側責任を免責する条項を理解し承知した。。
入院していろいろな検査をした。 頸椎関係はすでに通院の時点で詳細なデータがとってあるの
で、より基本的な、血圧、血液、視力、肺活量、聴覚、などである。 全て手術に支障のない正
常値であったが、頭の中身の善し悪しは検査されなかった。その後は手術後の生活指導である。
首は微動だに出来ないのであるから、食事をはじめとした入院生活の練習である。 トレイや皿
の下に顔を置いて、食事の上にある鏡を見ながらの訓練などである。
さて、手術であるが、前日までその方法を検討していたらしい。 私には「喉の前方から切開し
頸椎の3・4・5番に窓をあけ、腰骨を移植し惹起して相互の間隔を確保する」と言っていた
のだが、前日の最終会議で中村教授から「後ろから切開し 頸椎の二番から六番までを割って人
工骨で挟み、脊椎を広げて神経の道を確保する」との判断が示された。前者では 首の回転が減
少して、負担がかる7番がいずれ危なく、後者は安全策であり首の回転機能が落ちないという。
三名の先生方が手術を担当するのだが任せる他はない。 私は一言「ゴルフでドライバーがフッ
ク系なので真っ直ぐ飛ぶように神経を巧く繋いでくれ」とお願いした。
手術当日の午前中に病院内の床屋で耳部から下の髪を坊主に剃り、下剤で便通させ、午後一番
に筋肉注射されたころから心配や不安はなくなり、手術室に向かう頃には 家族と対面しても意
識は半分消えてボーとしていた。
それは一瞬のようであった。気づいた時は「一寸前に手術室に入ったばかり」の感じである。
すでに六時間を超えているとは信じられない。星地先生が足の親指を揺さぶりながら、手術が
終わったこと、麻酔が切れてきたこと。足の指の感覚があるかどうか、と話しかけてきた。手
術は正確に完了し成功したと言う。意識が戻るなかで、手・足のしびれを確認したが未だしび
れがかなり残っていた。なかなかか改善しないのかと心配になる。穴水先生は、三ヶ月前の痛
みは直ぐとれるが一年前の痛みは一年かかってとれるだろうと云う。
それから一日一日しびれが和らいでいった。 首はまったく動かせない。首から背中の上部にか
けて「ドシーン」と言う感じの重い痛みがあって首を動かすなんて滅相もない事である。 しか
し痛め止めの処置なのか睡眠薬のためなのか、痛みに苦しむことは無かった。
食事は寝たままの姿勢で鏡を見ながらホークと箸で食べる。訓練の修得よろしくうまく食べら
れた。首はもとより身体が動かせないのであるから時間を過ごすのはラジオである。それにし
ても夜が長く夜明けがなんと待ち遠しいことか。老朽化した病棟は暖房施設が悪く、夜半まで
は暑くて朝方は寒くなるなど、日本を代表する最高学府・東京大学らしくない。
5日が経過した時、看護士の藤原さんが「ベッドを十五度ほど起こしましょう」と云う。電動
のベッドが動き出すと 背中と首がほんの少しばかりずれるのだが、このづれが無性に不安なの
である。それでもゆっくりと何回かに分けてベッドを上げた。まるで別世界を見る感じである。
人も部屋も外の景色も下からではなく横からみられる。食事もやや横的に見ながら食べられる。
当たり前の視界に近づいたのである。
日ごとにベッドを徐々に上げてゆき、四十五度ほどにすると気分は「元気な患者風」になった。
この頃から家族はもとより見舞いの人も訪れるようになった。
十日が経過した頃であったが「歩いてみましょう」と肘支えの台車を持ってきた。首を保護し
て立ち脇下に台車のフレームを挟んで歩いてみると足の運びはなんともない。部屋の中で試し
てから廊下を少々歩いた。医師は私の足の運びを観察し異常はなく合格の様である。 隣ベッド
の吉岡君の台車は新品だが私のは大分古い中古車、ここには 外車の新車はないようだ?。
それからは時間が経過するほどに通常の生活になってゆく、台車を使えば歩けるし、トイレに
も探検にもいける。本や新聞も読める私などは他の患者と比べればまったく軽いものなのでる。
頭を覆う「正ちゃん冒」を順子に買いに行って貰った。 別に頭は寒くないのだが格好が悪いの
で散歩にはこれを被って行った。
髪の毛も少し延びたころ、会社の同僚やJTB旅館連盟の役員などが見舞いに来てくれた。散歩を
兼ねて喫茶店に行って ゆっくり話しが出来たが、心配していた見舞客も 私の様子に安心して冗
談などを言い合って帰って行った。
十六・七日を経過したころ、お風呂に入るよう勧められた。絶対転ばないよう注意され 首をガ
ードして一人で入った。これが大きなお風呂で温度はぬるい。まずは頭を洗いたい。ゆっくり
した動作で洗ってみると「まったく気持ちがいい」。お風呂の有り難さが身にしみた。
相変わらず隣ベッドの吉岡君と「探検」と称して散歩していたのだが、行き先もルートも時間
もなぜか同じになるので仲間が段々増えてきた。仲間は頸椎症 関節手術 交通事故などの患者
達で、命にかかわる人は一人もいない。煙草 にコーヒー でお喋りし 天候や 食べ物に退院予定
日などが話題である。でも、院内感染も心配なので内科病棟には行かないようにした。
十二月の二十四日はクリスマスイブの催し物が病棟・階ごとに行われた、看護婦さんがサンタ
に扮して縦笛でソングを吹きながら各部屋を廻り知らせにきた。ある部屋に集合し医師や看護
婦さんの心ずくしのパーテイーとなった。寝たきりのベッドの人 介護された車椅子の人 いろ
いろである。女性患者には初面識の人が多かった。先生や看護婦さんの有り難い寄せ書き色紙
を貰ってイブを楽しんだ。
翌日 星地先生が巡回の時に「正月は家に帰りたいか」と聴く。当然に「帰りたい」が答えだ。
病院も二十八日が御用納めである。通常からは一週間ほど早いのだが、私は若いので経過も良
好で退院させると云う。私の状況はしびれと痛みの程度にはほとんど変化が無く、手術前の六
割ほどの状態である。本音はもっとよくなることを期待していた。
二十八日、娘婿の哲也に車で迎えに来て貰い退院した。午前中に手続きをし、昼を湯島の蕎麦
屋で食べ、旅館連盟に菓子折をもって挨拶がてら顔を出し、高速経由で自宅に帰った。ほぼ一
ヶ月ぶりの我が家である。親父も「ほっと」したようである。話しをしてお茶を飲み、早速に
寝ることに専念しなければならない。お正月をはさんで一ヶ月の自宅療養である。骨が固まる
まで寝ながら徐々に機能を回復させるのである。
お正月を過ぎると不安はなくなった。表に出て歩いたし もう少しで勤めにも行けそうな感じで
ある。しかし慌てることはない、職場の旅館連盟はちょうど余裕のある時期なのだ。
二十六日、退院一ヶ月後の術後診察を仰ぎ 経過も順調と判断され、月末から勤務に復帰するこ
ととした。しびれはまだ残るのだが旅連の社員は私に親切であり、こころ配りもそつがないの
でしばらくは甘える事にしよう。判断と指示だけすれば作業は部下たちで大丈夫なのだから。
不況の世の中はリストラ騒ぎである。私は首は切ったが勤めは首を切られずに済んだのである。