本とCDは頭痛を促していた。
本やCDを購入したくて店に入ると必ず軽い頭痛が起こる。
CDは古い時代のもの、本は古い著書の小説・詩・宗教や古典、戦争など成人してからも非常に興味がったので衝動に駆られてそのコーナーに足を運ぶが、本やCDを眺めていると強烈な頭痛と目眩に襲われまともに見ることが出来ず、店を出る事を数年前から何度も繰り返していた。その類に拘っている訳ではないのだが、無性に見聞きしたくなる時があったのだ。
見たくて聞きたくて堪らないのにそれが出来ない、これはもう本屋に入ればトイレに行きたくなる人と同じ類の頭痛バージョンかと諦めていた。しかし情報誌や週刊誌、ここ直近で出た新刊・新譜などのある出入り口付近は軽い頭痛で済む。要は出入り口辺りならば平気なのか?
頭痛目眩の症状は1日続く時もあれば数時間で治まる時もある。私にとっては結構なストレスであった。
以前お付き合いをしていた人は非常に本への造詣が深く、ありとあらゆる本を所持していたようだったのでまだお付き合いの浅い頃「お勧めの本はありますか?」と訊ねた。すると谷崎潤一郎の春琴抄、少将滋幹の母・尾崎紅葉の金色夜叉・中島敦のあぁ荒野などお勧めですが他にもありますから、どうぞ何でも云ってくださいと本について非常に詳細な説明をしてくれ、とても嬉しく思い是非とも読んでみたい。そう思うと同時に頭痛を覚えた。偏頭痛持ちなのでいつものようにまた始まったのか、とさほど気にせずに鎮痛剤を飲み床に就いた。
数日後、何冊かの本を貸して貰い自宅に戻る直前、車内で一冊一冊、手に取り表紙を眺めるとまた、軽く頭痛が起きている。三冊ある内の二冊で目眩が起きた。その日は深夜であったので本は一旦置き、眠る事にした。
次の日仕事が終わるとまた、車内で本を手に取って眺める。するとやはり頭痛と目眩が起きしまった。
これはやはり本によって起きる頭痛だったのか。しかし一体どういう事なのだろう?解らずいる訳にもいかないし、何より貸して貰った本を見ずに返すのは貸してくれた人にも申し訳ない上、私自身も見たくて堪らない。
いずれにせよこのまま何もしないのは良くない事だ。これはいいきっかけになるかもしれない、目眩が少し治まったところで思い切って本を開いてみよう。
本を開くと同時に眼の奥から後頭部、頭頂部にかけて強烈な頭痛が襲ってくる。眼を開くのも苦痛になり、車のシートを倒し少し横になった。暫くすると頭痛はするが眼は開けられるので今一度本を開いた。頭は変わらずガンガンと打たれ、目眩も軽く起こしており正直きつかったが無視し、まずは1ページ、読み始めた。
直後にとめどもなく涙が溢れ、「懐かしい」「苦しい」「切ない」様々な思いが漠然と込み上げて来たがまだもう少し読めそうだ。ページを進めていく。ページを進める度昔の記憶がぼんやり蘇り脳の奥で怒鳴り声、肌寒い感覚、学校の事、明確ではないが頭のガンガン打たれる音と同じタイミングで現れては消え、現れては消えていった。
この本は読んだ事がある。そう確信した。
その日は目眩と頭痛の酷さに半分も読めずとうとう終わってしまった。明日、もう一度続きを見よう。
幼い時分より本が大好きで、全ての本を手に入れたかったように記憶している。
本屋に行くとワクワクし片っ端から手にとって眺めていた。幼い頃はお小遣いをコツコツ貯め、選びに選んで一冊だけ購入するのが何よりの楽しみではあったが欲しい本はたんとあり、当然買うことは出来ないので図書館に足を運ぶようになる。何時間居ても心地よく、私にとってまさに天国だった。
しかし門限という縛りがあり、なかなか思うようには居られず図書館へ寄る事もなく帰る日もしばしばあった。というより行けなくなったと表現する方が正解かもしれない。
実はもう一つ問題があった。私にとって宝物のような本を、いとも簡単に破り捨てられてしまう現状があったからだ。
コツコツ貯めたお小遣いで購入し、一秒でも早く読みたいと走って帰宅。ワクワクしながらビニール袋を破ったのち表紙を眺め、さあ読むぞ!ページをめくった所で、本は母に取り上げられた。
必死で抵抗し本を取り返そうとすると幼い私の手の届くはずもないはるか高い位置で、本は粉々になった。
大泣きしてその日の夜は眠れずに朝を迎えた。幼いながらに何故破かれたのかを考え、結果本の種類を変えた。何度も何度も変えた。しかしどのジャンルであれ、現実の変わることは無かった。
当時の私は学校の図書館で読む本はあまりに幼稚なものばかりで見る気すら起きなかったから、図書館に通ったのだと思う。しかし図書館へ通う時間も制限が掛かっていたので借りるだけ借りて休み時間に本を読み、学校に置いて行くという生活をしていた。
中学生になり、音楽にも興味を持ち始めた頃購入したCDは洋楽だった記憶がある。流石にCDは破壊できないと安心していたのだが甘くは無かった。学校から戻るとCDは無い。あちこち探すが見当たらず、あぁこれは捨てられたんだと自分の甘さに怒りすら込み上げていた。その後、購入したCDを解らないような場所に隠したりもしてみたが結果は同じ。音楽もいろいろをどうにか接収する努力をし、何とか聞いていたが自宅で聞くことはまず無かった。
だから今現在もなお、自身にとって大切な物は全て車内に持ち込んでいて車の中は荷物で溢れている。流石に溜まりすぎたので会社に幾つか置いてあるくらい、荷物は大量に積み込んである。
と、ここまではつい最近どうにか思い出した。私の記憶はある一定の時期がずっぽりと抜けている。
思い出すまでは単純に「本や音楽に触れることを禁止されていたから一切を見なくなった」という形で記憶していたのでどんな経緯でそうなったのかなどは考えたことも無かったし、様々本を読んだのか読んでいないのか、それすらわからなかった。しかしたまに文章の一節などが頭をよぎる事があったので不思議には思っていた。
お付き合いしていた人から借りた本は、1週間をかけてどうにか全てを読み終えた。ざっと流し読みするのがやっとだったが文章の所々、覚えているものを見つけたりもできた。兎に角頭痛目眩との闘いではあったが何より一番収穫だったのは、借りた本は読んでいた。それが解った事だ。
憶測だが、「読んだ事がない」のではなくて「読んだ記憶を消去していた」という事だったのかなと。過去は消去するというクセが自然とついていたのかもしれない。
その後、お付き合いしていた人の自宅へ頻繁に足を運ぶようになっていき、当然本はたんと置いてある。本を眺めるとやはり頭痛は起きていた。あの部屋にも、過去に読んだ本があったという事だ。
部屋に行く度読みたくて読みたくて仕方なかったのだが、頭痛や目眩を起こして心配させてしまうのもどうかと思い、読むことはやめていた。
何度も何度も読み聞きすればきっと、どの本や音楽と過去とをリンクしていたのか解明されていくのだろうし、本や音楽本来の良さ、当時なぜそれに傾倒し大切に思っていたかを思い出すかもしれない。
時間は掛かりそうだが地道にやっていこうと思う。
良かったまだ痴呆症にはギリなっていないようだ。