こんにちは、ぴろろです
(*´꒳`*)


連日お伝えしている
エジプト文明 アマルナ美術の最高傑作
「ネフェルティティの胸像」

美術出版社 カラー版 西洋美術史より




この彫刻は1912年にドイツの考古学者ルートヴィヒ・ボルヒャルト率いる

ドイツ・オリエンタル協会によって

彫刻家トトメスの工房跡より発掘されます。

 




ここの工房跡からは、

未完成の后の胸像も多数発見されています。

 

 

1913年に出土した考古学的遺物の分配について

エジプト政府職員との話し合いの結果

この胸像はドイツのものになるのですが…

 

 

話し合いの際、

この胸像の存在はエジプト政府には伝えられないるまま行われたそうです。



1913年にベルリンに渡ります。

ドイツに持ち運ばれてからもボルヒャルトの要請で胸像の存在は隠されていました。

 

 

そして

胸像が発見されてから10年後の1923年

ボルヒャルトの文章で初めてネフェルティティの存在が公表され

1924年よりベルリンのエジプト美術館で一般公開されます。

 

 

と、同時に

エジプト政府は

「話し合いは不正な取引だった」と抗議し、返還要請を始めます。

 

 

ここまでもかなりドラマチックなのですが、

第二次世界大戦に伴い「ネフェルティティの胸像」は更にドイツを旅することになりますガーン



もともとこの胸像は

ベルリンのエジプト博物館で展示されていました。その後、博物館島にある新博物館で展示されます。



第二次世界大戦が開始すると

ベルリン美術館の所蔵品は安全な場所に移動されます。

1939年にベルリン美術館が閉鎖されるまで

胸像は新博物館にありました。

その後

帝国銀行の地下金庫に避難

1941年

ベルリンの高射砲塔防空壕へ

1945年5月6日

戦禍を逃れてテューリンゲン州の岩塩抗へ移動


同年の5月中にアメリカ陸軍に発見され

胸像は美術品を取り扱う部に引き渡されます。

フランクフルトへ




1946年

フランクフルトから30キロほど離れた場所にある

ヴィースバーデンの美術館で公開

1949年東西ドイツ分裂

1956年にアメリカから西ベルリンに返還され

ダーレム美術館で展示

1961年ベルリンの壁によるベルリンの分断

(ベルリン誕生以来、伝統的な都市部はほとんど東ベルリン側に属していた。東ベルリンは東ドイツの首都であり、ソ連の占領が続いた。)

1967年

シャルロッテンブルクのエジプト美術館

(シャルロッテンブルク城の向かいにあるエジプト美術館、西ベルリン)



1989年 ベルリンの壁の崩壊

1990年 東西ドイツ🇩🇪統一



2005年 博物館島の旧博物館

ドイツが統一されたことにより

ようやくここで博物館島へ戻ってきますびっくり

(東ベルリンにあたる地域)

2009年 博物館島の新博物館

そして、はじまりの場所へ…約80年にわたる女王の旅は終わります✈️✨




新博物館は1943年にイギリス空軍によるベルリン爆撃により大きな被害を受けます。2009年に修復再建工事が行われ、リニューアルオープンを果たす際に「ネフェルティティの胸像」は美術館の目玉となりました。



胸像は新博物館に戻ったのですが、エジプト政府からの返還要求は今も続いており、現在も揉めていますガーンガーンガーンガーンガーン


この先の妃の旅はいかがなものになるのやら…

ガーンガーンガーンガーンガーン💦



それくらい

美しく、魅力的な妃の胸像



それ故に集客力もすごいため

国レベルの争いは続きます

笑い泣き笑い泣き笑い泣き笑い泣き笑い泣き




ベルリンの博物館島行きたいよー


ネフェルティティの実物

みてみたいよーチューチューチュー💕💕💕


私のノートのネフェルティティ♡