こんにちは、ぴろろです
(*´꒳`*)
今日はエジプト文明の新王国時代についてお話します。
昨日ご説明した古王国時代と、今日お話しする新王国時代の間には中王国時代(紀元前2055年~1650年頃)があるのですが、
美術的にも特筆すべきことがないため割愛します。
しいて言えば、それまで盛んであったピラミッドは建設されなくなり
神殿の造営に代わっていった時代でした。
帝国書院 最新世界史図説 タペストリー19訂版より
新王国時代:紀元前1550-1069年
第18、19、20王朝
当時のエジプトでは
エジプトの富の1/3が集まったと言われるほど神官たちに権力があり
それはファラオさえも抗うことのできないものでした。
この状況に危機感を抱いた
第18王朝の王アメンホテプ4世(位:紀元前1417年~1362年)が宗教的・社会的改革を行います。
《アメンホテプ4世の改革》
1)遷都:
首都をテル=エル=アマルナへ
これまでの首都:テーベ
テーベの守護神アメン(アモン)の神官たちが絶大な力を持っていたため
その権力を回避するためアマルナに遷都します。
出川出版社 詳説世界史図録より
2)宗教改革:
太陽神アトン(アテン)の信仰を強調
テーベの守護神アメン(アモン)・ラーの
信仰から(多神教)
↓
唯一太陽神アトン(アテン)神
への信仰へ(一神教)
これはアメン神信仰を否定することで
テーベの神官軍の弱体化を狙っておこなわれたものでした。
帝国書院 最新世界史図説 タペストリー19訂版より
アトン神は世界初の”唯一神”✨であり
手の形をした太陽光線が特徴です。
しかしアトンへの信仰は王族のみで
他の人々は王を神として信仰するように命令していました。
3)改名:
名前を「イクナートン」へ
改名前:アメン・ホテプ
アメン:テーベの守護神
ホテプ:崇拝
↓
”アメン神を崇拝する者”と言う意味
改名後:イクナートン
↓
”アトンに愛される者”と言う意味
4)アマルナ美術
アトン神は”自然の摂理に従うこと”を唱えました。この理念もと「アマルナ美術」が生まれます。
エジプトの美術は地理的に閉鎖的であったこともあり、長い歴史の中で
大きく変化することはありませんでした。
しかし、このアマルナの時代だけは
これまでの伝統にとらわれない、自然かつ写実的な美術が生まれます。
これはエジプト美術の絶頂期であり、後世にも大きな影響を与えます。
以上のようにアメンホテプ4世(イクナートン)はこれまでの伝統を否定する数々の試行錯誤を行います。
これらはテーベの神官たちの猛反発をくらい
残念ながらアメンホテプ4世の死と共に終焉を迎えます。
息子である次の王、ツタンカーメン王は神官たちと和解し首都をメンフィスに移し
アメン(アモン)・ラーの信仰に戻しました。
同時に「アトン神」は禁止され、アトンに関するものはすべて破壊されてしまいます。
アメンホテプ4世は「アメン神の信仰を捨てた」とし、忌み嫌われる存在として扱われ
記念碑や王名表からも名前を消されます。
神殿も破壊され、壁画も削り取られるだけに留まらず、棺から王の顔が削り取られるなど、痕跡を抹消する努力がなされます。
結果、首都であったアマルナは廃墟と化しますが
そのお陰で遺構が後世まで残り、近年、再発掘が行われています。
明日は「アマルナ美術」の最高傑作
「ネフェルティティの胸像」について触れていきたいと思います
私の大好きな美術品です💕💕💕💕💕
!!!!!
エジプト文明:新王国時代
紀元前1550-1069年頃
アメンホテプ4世が宗教改革を行う。
アメン信仰の神官たちが権力を持ち、政治にまで口出ししてくるようになっていた状況を懸念し、アメンホテプ4世は宗教改革を行う。
①首都をアマルナに遷都
② アメン信仰から太陽神アトン信仰へ
③「アメンホテプ」から「イクナートン」に改名
その結果、これまでの伝統に囚われない「アマルナ美術」が生まれる✨✨✨