終わり、ではなく。
※地元新聞の読者欄の投稿記事について感じたことをまとめました。 1,100文字ほどの記事です。- - - - - - -新聞の投稿欄でこんな記事を見かけました。投稿者は86歳の方。コロナ禍以降、葬儀が家族葬中心になって、 受付だけ済ませて帰る人が増えたことに投稿者はずっと寂しさを感じていた。そんな中、ある葬儀に参列したとき、 交通の遅れで受付終了後に到着したものの、係の方の配慮で式場に入れてもらえた。 会場は席数に比べて参列者が少なく、その光景にもまた寂しさを覚えた。ところが、遺族と故人の思い出を語り合う時間が持てたことで、“心の交流”の大切さを改めて感じた。その経験から、 「葬儀はシンプルで良いと言い切ってしまっていいのか」 と疑問を抱いた──そんな内容でした。年配の方だから、とレッテルを貼りたくはないのですが、ごめんなさい。貼ります。この投稿では、施主側の事情には全く触れられていません。また、新聞に投稿したという事実は「自分の意見の正しさ」に承認を求めたいという気持ちの表れではないか、と、ワタシは思いっきり勘ぐってしまいました。感情を全開にして悲しむことができたなら、それはそれで全く結構なことなのですが、そうはいかないのが現実。昔のように大家族ではありません。昔のような「濃厚な繋がり」を持ちにくい。人手を確保できないのです。可能な部分は自分達だけでやるしかない。だからこそ、葬祭業者の葬祭ホールを利用してなんとか送り出してる。加えて、高齢な参列者が多いと送迎や誘導などのさらなる配慮が発生するケースが多いです。そこに割けるだけの人手は、もちろんありません。そりゃ、丁寧に送りたいです。大切な家族を亡くしたんだもの、十二分に悲しみたいし、感謝も伝えたい。ただ、そこだけに集中してしまうと、参列者さん達を「置いてきぼり」にしてしまうことになる。参列者さん達にすれば葬儀は「終わりの儀式」なのかも知れませんが、遺族側にすれば、葬儀は「終わり」ではなくて、むしろ「スタート」。感情だけでなく現実的にも本当の「お別れ」がここから始まるということなのだと自分の体験から、そう感じています。そして、現実的な手続きがひと段落した時に、初めて「やっと悲しめる」。無理なく送り出すための選択の結果がシンプルな葬儀だったということであり、そこに「心が伴っていない」ということではないことにこの86歳の投稿者さんが気づいてくれたなら遺族側としても、本当に救われます…。つい、強い言葉も使ってしまいましたが、一方通行の道路で自分に向かって逆走されたような気分になってしまって記事に反応してしまいました。お酒を飲みながら記事を打っちゃダメですね。いつもにも増しての乱筆乱文、失礼しました。へば、またのちほど。(※青森空港ライブカメラの映像より)合同酒精 NIPPON PREMIUM 青森県産ふじりんごのチューハイ 缶 350ml×24本Amazon(アマゾン)3,316〜3,491円【ラグノオ公式】 パティシエのりんごスティック 8本入 りんご パイ スティック 青森 土産 お菓子 スイーツ デザート 焼菓子 洋菓子 ギフト プレゼント 贈答用 贈り物 個包装 お取り寄せ 御祝 内祝 御礼 御挨拶 退職 転勤楽天市場2,160円