憲法改正の課題 | 日本の構造と世界の最適化

日本の構造と世界の最適化

戦後システムの老朽化といまだ見えぬ「新しい世界」。
古いシステムが自ら自己改革することなどできず、
いっそ「破綻」させ「やむなく転換」させるのが現実的か。


現行憲法の課題は何か?


安全保障に関する第九条だけに捉われ過ぎると憲法議論が陳腐になる。


ちなみに戦争末期の日本の指導者は、ポツダム宣言受諾をめぐり第九条よりも国体(天皇)の行方をより危惧していた。武装解除よりも天皇存置の方がより重大な問題だったのである。


        武装解除 < 天皇存置



憲法論的に重要なのはむしろ現行憲法における以下のポイントではないか。

①天皇主権から国民主権に転換
②国民の権利が「法律の留保」から「基本的人権(天賦人権)」に転換
③「公共の福祉」の問題
④財産権の制約の問題
⑤公共・自由の再定義


これらはあまりにも重大で、国防軍の有無に関わらず、国家・民族の信念・思想を標榜するものである。「俺達の・・」と言うなら便宜的に現在のものをなぞるだけでは足りない。


①天皇主権から国民主権に転換



日本の構造と世界の最適化 これは法論としては「八月革命説」をもたらした。欽定憲法(天皇主権)民定憲法(国民主権)に転換することは、「
憲法の自殺」であり、法的にはあり得ないとされたからである。それゆえ「法的革命」があったという学説が出た。これは芦部博士の師匠・宮沢博士の思想である。
八月革命説(wikipedia)

*ただし民定と言ってもマッカーサー草案を帝国議会・枢密院が追認した形である




『大日本帝国憲法』では国民に主権はない。天皇に主権があった。
*天皇に主権があると言っても、明治天皇と伊藤博文の『機務六条』により「君臨すれども統治せず」に近い形となった。
機務六条(成人した明治天皇が親政をあきらめる)(wikipedia)
*しかし憲法上内閣は規定されず、総理の力も脆弱であった(将軍や関白のような天皇代理に匹敵する権力を忌避したからである)ため、国内が不穏になると政治家は制御できなくなり軍部が台頭するに至った。
具体的権力の規定が曖昧だった。天皇が専制を行わず、総理に力がないとすると、誰も統治していないことになる。
二二六事件の反乱軍を逆賊とし、終戦御前会議でポツダム宣言受諾を断行したのは、皮肉なことに「君臨すれども統治せず」を破った昭和天皇の親政「天皇の大権」とも言えた。
昭和天皇の「玉音放送」を阻止するために陸軍の一部が皇居に侵入し近衛師団長を殺害した。自分に都合の悪い天皇陛下の大権は武力で粉砕するというのは、野蛮な論理である。

*ただし「天皇機関説」は、天皇というより国家という法人に主権があり、天皇も国家に奉仕するという見解であった。それゆえ国体明徴運動が盛んになると「天皇機関説」の美濃部達吉博士が糾弾されることになる。


統治権は天皇にあるのか、国民にあるのか、この際すっきりさせよう。


さて、天皇主権に戻りたいか? Yes or No


「戦後憲法はクソだ!しかし現行憲法の国民主権はいただくぜ。だってそうじゃないと国民投票の力が弱くなるじゃないか」という考え方か?


まずこの点を国民は明らかにし、選択しなければならない。中途半端なら憲法改正の意味はない。『大日本帝国憲法』から『日本国憲法』への転換における重大変更点である。


②国民の権利が「法律の留保」から「基本的人権(天賦人権)」に転換


■『大日本帝国憲法』の権利への「法律の留保」
極端に言えば、生きることも国家が法律で制約できる。あらゆる権利は法律の制約内にある。
ただし法律は議会の多数決で一応民主的措置ではある。「うるさい、お前は生きるな」と多数決で決められる。むろんそんな非道で乱暴なことは温情によりないだろう。ただし温情でひどい目にあわないだけで権利があるからではない。権利ではなく多数者の温情にゆだねられる。


日本の構造と世界の最適化 この「法律の留保」の発想は憲法的後進国であったドイツ・プロイセンで生まれたもので、

法律次第でどうにでもなる「国家から与えられた権利」であった。こうした国家主義的な法思考から最終的には合法的に政権を取ったナチス・ドイツが生まれ、総統(ヒューラー)という独裁者が生まれることともなった。






■『日本国憲法』の「基本的人権」
戦前には「天賦人権」と呼ばれ、要するに「天が与えた権利」なので否定することができない
福沢諭吉の「天は人の上に人を作らず、人の下に人を作らず」と似た発想である。要するにこれは確かに欧米の極めて一神教的・宗教的な土壌から生まれた思想に由来している。


ただし現行憲法では人権は「公共の福祉」の制約を受けるので、解釈の仕方によれば、「法律の留保」と同じ実態ともなる。


さて、「法律の留保」に戻りたいか? Yes or No


これは「権利」というものが何なのかを問うものである。


人権など言う奴はクソだ、しかし俺を攻撃・批判すると名誉毀損で訴えるぞ」

こういう独善的なことをしゃべる人もいるが、名誉毀損で訴えることができるのも権利から派生している。その心は「俺には権利はあるがテメーにはねえ!誰に権利があるか決めるのは俺様だ!!」である。私はこうした方のために提案する。「もっと政治献金を積め、お前が多数派になれるように」。
権利はいらない人達(当ブログ)

■天賦人権否定派

自民党 片山さつき議員の2012/12/07 12:37:08 のツイート
国民が権利は天から付与される、義務は果たさなくていいと思ってしまうような天賦人権論をとるのは止めよう、というのが私たちの基本的考え方です。国があなたに何をしてくれるか、ではなくて国を維持するには自分に何ができるか、を皆が考えるような前文にしました!

*ケネディー的なことを付加しているが、左派のケネディーの「国家に奉仕せよ」だけ都合よく取り出している。もちろん片山氏は左派ではない。


片山さつき議員は「芦部先生の直弟子」とも自称しているらしいが、芦部憲法学天賦人権の自由権保障を自明のものとして展開されている論だから、「芦部の世界を否定せよ」と言うべきであろう。また後で「そんなつもりじゃなかった」と後から言うくらいなら、個々の自民党議員が勝手に自己の憲法見解を述べるのは抑制した方がいいだろう。勝手に自由に意見を述べるのは自由権に由来することになる。党がもっと統制・拘束議員に自由を許さず誤解を与えないようにすべきだろう。


○戦後国際社会で天賦人権が普及


日本の構造と世界の最適化 ちなみに日本は国連による国際人権規約等の人権条約、児童の権利条約などに批准等しているが、戦後国際社会で確立し
た人権はすべからく「天賦人権」である。これを批准したのは憎き左翼ではなく自民党である「天賦人権」は戦後ますます普及した。その理由はナチスドイツの国家主義の悪例に鑑み、議会の多数決でも否定できない権利を保護するためであった。

世界人権宣言(wikipedia)

世界人権宣言: 前文:人類社会のすべての構成員の固有の尊厳と平等で譲ることのできない権利とを承認することは、世界における自由、正義及び平和の基礎であるので、・・・・
*弁護士法第1条「弁護士は、基本的人権を擁護し、社会正義を実現することを使命とする。」

*刑事訴訟法第1条「この法律は、刑事事件につき、公共の福祉の維持と個人の基本的人権の保障とを全うしつつ、事案の真相を明らかにし、刑罰法令を適正且つ迅速に適用実現することを目的とする。」


とすると、片山さつき議員には憲法改正だけではなく、弁護士法改正・刑事訴訟法改正、人権関連条約の撤廃などたくさんの仕事が残っている。


要するに、天賦人権=基本的人権を否定していく場合、これに代わる重厚で新しい世界観が必要となる。本気で天賦人権を否定するなら、世界人権宣言(1948年)を破棄し、国連人権規約などを破棄すべきである。


ぜひ名のある方に「おれはそんなものクソだと思っている」と叫んでほしい。自民党政権が批准した責任があるので自民党政権を責めるべきである。



■義務を果たす必要のない権利・自衛権など

契約上の権利は、確かに義務を果たさないと主張できない。しかしセクハラを受けない権利は、義務とは無関係に保障される。「仕事のできないお前はおっぱい揉まれて当然だ!」とすることはできない。また「税金を払ってないから裁判を受ける権利を否定する」こともできない。さらに民法の相続権は「親孝行もせず、葬式の手伝いもしなかったくせに相続分よこせだと!」という義務を果たさなくても生じる権利である。権利のいくつかは必ずしも双務的ではない。
*行政処分を食らっても、これを不当として行政訴訟を提起できる。義務を果たしていないかどうかの法的最終判断も司法にある。


国防軍の議論は、そもそも自衛権があることを前提としている。そして自衛権を行使するにあたり他者に対し義務を果たす必要などない。自衛権は生きる権利であり自明当然の権利である。誰か他国の許しを得て行使しなければならないものではない。



■「因果応報」「報恩忠勤」は国家憲法原理になれない

さて、「義務を果たさずに権利権利と・・」という思考はどこから来るのか。


これは要するに日本古来の「因果応報」「報恩忠勤」的双務観念である。これは「おごってもらったら、お返しする」という風習と同様に感情習慣としては存在するが、近代国家の骨格にはなれない。

因果応報仏教のカルマ(業)の法理であり、悪人にはいつかバチが当たるということである

*戦後、サルトルらの捉えた実存主義は因果のないただようアメーバーのような不条理な世界を前提としており、日本的な双務観念とは対極的である

『菊と刀』では、日本人に金銭貸借のごとき強い報恩の感覚があることが指摘されている。「無償の愛」を尊ぶキリスト教圏とは対極的である


もし双務的観念だけで貫けば、例えば犯罪者として受刑が確定した者にはそもそも何の権利もないことになる。判決が確定したが受刑しながら冤罪を訴えるということもできにくくなる(足利事件は裁判確定後も冤罪を訴え続けた)。また死刑囚は極悪人間なのだから、飯を食わせず、病気になっても医者に診せずに殺せということにもなりかねない。死刑囚は生きていることが法的に許されないくらいなのだから、どんな目にあっても自業自得だ・それが罰だということになる。実際に看守による囚人リンチ事件もあった。これらは前近代的観念で物事が動いている証拠である。さらに勝手に流入してきた難民という問題が世界中にあるが、義務を果たさずにやってきたので何の権利もなしとすることになる。


巨大な一億以上の人口を擁する国家、「因果応報」「報恩忠勤」的な観念だけでは統治はできない。これらは直接的人間的つながりがあり、流動性のないムラ社会で育まれた観念なので国家原理にはなりえない。情緒や倫理だけで維持できる集団は20世帯以内のムラくらいだ。


 大日本帝国憲法の解釈


  起草者・井上毅 → 朱子学的国体論 公私峻別(天皇=公 ←→ 臣民=私)


  高山樗牛 → 「家」的国体論 君臣一家 国家は「家」(天皇=宗家・臣民=末族)


そして、天賦人権の否定は、「権利権利と言いやがる、てやんでえ、」という親父のつぶやき程度では済まない。「個人とは国家公共に許されてのみ存在できるのだ!」と言えば先進国的には珍しい憲法になるので、憲法学者を含めた重厚な議論が必要である。


ただし、憲法上の権利のうち、社会権はその性質上天賦人権ではない。天賦人権=自由権は、国家ができる前から人間や集団が持っている生存本能のようなものである。一方、社会権は公権力の助けがあってこそ実現できる。

社会権(wikipedia)


問題の根っこは、「政府の努力義務でしかない社会権」「絶対保障である自由権」が一緒くたに「人権」として混同させることになる『ワイマール憲法』由来の欠陥によるものであろう。
*親父達がむかついているのは「社会権」の絶対保障であるが、「社会権」は本来努力義務程度のものである。国家の給付には経済的・金銭的限界があるので絶対保障などできない。


     社会権(社会保障・労働基本権) ←  → 自由権


そして憲法には民主的多数決ですら否定できないものを書くのである。

*もちろんクーデターなどがあればそんな憲法も倒れる


民主的多数決が絶対なら、憲法と称して相田みつをに情緒で何か「あのねえ、わかる?」と書いてもらったらいいだろう。


            憲法 > 時折の民主的多数



③「公共の福祉」の問題


現行憲法上も、人権とやらは無制限ではない。

「公共の福祉」の制約を受ける。これは人権嫌いの人たちもあまり理解していないところである。法論としてもっと活用したらどうだろうか?


安倍総理が知らなかった戦後の憲法論の重鎮・芦部信喜「公共の福祉」の内容を精緻化した一人であった。
*芦部博士は、とりわけ違憲審査における「二重の基準」という功績がある。
*「二重の基準」とは、精神的自由経済的自由に優越するという考え方で、戦後アメリカ憲法学とも整合し、社会福祉政策による「経済の自由」の制約、具体的にはニューディール政策等を広く許容する論理である。


学者の見解はともかく、現行憲法の表現「公共の福祉」は抽象的でさまざまな素人解釈が可能である。もし「公共の福祉」を明治憲法の「安寧秩序」と置き換えれば『治安維持法』も現行憲法上、可能であろう。それゆえ問題となるのは「公共の福祉」なのである。


これは現行憲法の草案を作ったのが、法律家でも学者でもないアメリカ人素人集団(主にニューディール主義者)で、『ワイマール憲法』を真似したからである。『ワイマール憲法』には社会福祉などの美的表現はあるものの社会主義的な全体主義の匂いが漂っている。しかし『ワイマール憲法』に隠された全体主義がナチスドイツを生み出したとも言える。
ワイマール憲法は社会主義的権利をたくさん併記しておいて、一方で憲法保障全体は努力義務程度にゆるくした。そして、必然的に強力な行政リーダーを必要とするようになった。
*憲法第12条に匂う全体主義
「~濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。」
生存権には「生活保護をくれ」の他に「俺が生きるのを邪魔するな」という自由権的側面もあるが、個人の生存も「常に公共の福祉のため」というのは変である。「よーしお前は生きてよし」「みんなの役に立たないお前は死ね」ということになってしまう。


憲法改正をするなら、「公共の福祉」をもっと明確に定義し、国家・民族の信念と思想を明らかにする必要がある。


それは人権を制約するのは何かという核心的命題である。


   ワイマール的社会国家 → 人権は国家公共で制約できる

                     法があれば国民投票で独裁者を選出することができる
 
   中国的全体主義国家  → プロレタリアート独裁・自由など許さず

                     反右派闘争で50万人の地主・経営者を殺害


   英米功利主義国家   → 人権は他人の人権を損なわない限度
               
      *深夜に大音量で音楽を聴くことはできない。
                           寝たい人の権利を侵害するからである
                          →結実として利益の比較衡量で判定する



さあ日本人よ、お前達の人権制約論理は何なのだ?



学者はともかく、残念ながら日本人の腑に落ちているのは、空気による制約だという感じがする。憲法改正するなら、ここに決着をつけるべきであろう。


④財産権の制約の問題


現行憲法の「財産権」定義において、不思議なパラドックスがある。これは前述の「公共の福祉」の問題とも関連している。


憲法第29条
1.財産権は、これを侵してはならない。
2.財産権の内容は、公共の福祉に適合するように、法律でこれを定める。


①財産権は不可侵で憲法の力で保障する
②財産権の内容は「公共の福祉」に従い法律で定める


ありゃ。

これは不可侵と言いながら法律でどうにでもなる「法律の留保」と一見変わらない。それなら「財産の不可侵」は建前である。現行憲法のまま社会主義も可能となっている。「公共の福祉」を左方向に拡大すればそうともなる。それは財産権の内容は自由に変えられるからであるし、いくらでも制約できるからでもある。ある意味、「農地改革」のような地主の財産権の抹殺が可能ともなった。
*社長さん、これはあんたからどれだけ税金を取るか、徴用できるかという話でっせ!

中国の土地所有権は、日本と異なり借地権みたいなものになっている。あくまで土地は公有であり返還義務などがついてまわる。


    農地改革(地主の財産権抹消)は「公共の福祉」により合憲


つまり問題はやはり「公共の福祉」の内容であり、アメリカ的自由以上に、ワイマール的社会主義が争点として議論されるべきなのである。


⑤公共・自由の再定義


結局は、公共・自由を改めて再定義する必要がある。


憲法改正するならば、ナチスドイツを生み出したダメ憲法『ワイマール憲法』社会主義的・全体主義的傾をどう評価するか、決着をつけるべきではないか?つまり、現行憲法にはすでに「公共の福祉」なるものを通じた全体主義への道が隠されている。


残念ながら自民党憲法草案にはまったくその素振りも見えない。


「うおおお俺達で憲法を」

と言いながら、自民党憲法草案ほとんどの条文は現行憲法をそのままなぞっているだけである。第九条・国防軍だけ突出しているわけであるが、それですら、開戦・講和・中立などの国家重大時について明確化されていない。統帥権の所在もそれほど明快でない。残念ながら官僚的・補足的に現状へ憲法を一致させるにとどまっている。
*自民党憲法草案は靖国神社問題にしても、これまでの判例を成文化するにとどまっている。

これでは国粋派や宗教法人神社庁はがっかりしてしまうのではないか?
統帥権が総理にあるか、内閣にあるか、議会にあるかだけでもまったく異なる憲法になる
統帥権が不明の憲法など、誰が日本国の武力を統括するか将軍なのか、天皇なのか、大名なのか、侍はたくさんいるけれどというあやふやな国体になってしまう。まさにその問題が幕末の動乱を招いた。

*ドイツのボン基本法ワイマール憲法の欠陥である統帥権の所在を変更し、統帥権を大統領ではなく内閣に帰属させた。
国防軍論に情緒はいらない(当ブログ)

「そうだ環境権も」としてペタペタ貼ればリベラル寄り改正論者か?
*「プライバシー権」を貼り付ける場合、それは個人主義・個人尊重の強化ということになるが、国粋派は「個人の自由」を嫌っているはずである。思想もないものをペタペタ貼り付けるべきではない。


■公権力=国家をどうするか


近代憲法は、「個人の自由」を保障するため国家を制約する章典として欧米で生まれた。例えば議会が政府を抑制する。さらに「三権分立」により、公権力を弱める。アメリカ合衆国憲法にも見られるが、公権力に対し性悪説に立つ見方である。

*自由主義的憲法観が嫌いな学者は、「まあ三権分立というのは国家作用の役割分担で・・」と言う。


○おそらく自民党の憲法観と公共概念

自民党はどうもこの近代憲法の見方とは正反対の立場に立つようだ。それは国家性善説・国民性悪説である。


  近代憲法思想       ← →  自民党憲法観


 自由のため国家を縛る              義務で国民を縛る

 そのための司法手続き保障           平和ボケのバカ国民を叱咤するぜぇい

                                  公に殉じろ!

                            国を愛さないと痛い目にあわすぞ!


                               基本的人権破棄


    国家性悪説                      国家性善説



■戦前はそんなに美しくない

戦前には、天皇・皇国・国体という形で「公共」はある意味明瞭であった。ただし明治憲法「サムライの時代」を乗り越えるための憲法であった。


日本が資本主義化していく中で明治システムが老朽化したために、昭和維新が叫ばれ、青年将校のクーデター(海軍と陸軍)や財閥重鎮の暗殺(三菱財閥と安田財閥)、小作争議、労働争議が勃発したわけだ。陸軍内部での皇道派中佐による統帥派軍務局長の殺傷もあった。戦前には目下が目上を殺す下克上があった。自由主義・個人主義の英米でもそんな下克上は起こっていない。戦前に何か理路整然とした美しい世界があったというのは幻想である。過去への憧憬では憲法改正はできない。
*総理は大本営に参加できないルールだったが、伊藤博文は超法規的にオブザーバー参加していた。
倒幕の元勲が存命の頃は超法規的な斡旋調停が可能だったが、元勲が全員この世を去ると政治力は著しく弱体化した。
*「戦前は何もかも暗黒」という左翼も間違っているが、「戦前は何もかも美しかった」という右翼も間違っている。中学進学率20%で大根飯食って娘が身売りという社会が「美しい!なんて美しいんだ、うおおおおおお」と転げまわっても仕方がない。


■曖昧で結着がつかなかった戦後

戦後の公共については、当初敗戦の混乱と激しい左右の激突(左派優勢)があったが、高度経済成長がすべてを曖昧に放置することを可能とした。また自民党左派が公共事業ばらまきで所得を分配したため、決着をつけないまま今日に至った。


現在の自民党は奇妙なことに自らが形作ってきた戦後社会というものが大嫌いなのだが、戦後日本を統治したのも自民党である。


■公共の再定義が必要

ところで

現在の世界動向、経済は戦後型にとどまることを許さない状況ではある。そして新たな規範やシステムのためには、公共の再定義が必要だ。


つまり「公共」を再定義する上で、やはり資本主義論争も必要となる。経済システムを語らずに福祉だけ語って国家負担を肥大化させても実効性がないからだ。グローバリズム・広域経済通貨圏・21世紀以降の世界を見据えた再定義が必要だ。「もはや戦後ではない」のだから。この点、今の日本は精神的には混乱状態にあるように見える。


グローバリズムの話をしすぎると保守が分裂してしまうという事情もある(だから自民党やみんなや維新とかあるわけね。みんな保守を標榜していると思うが)。


「憲法を我々のものに!」と言うならば、あるべき経済システムと福祉についても我々のものにする必要がある。「環境権」など所詮その後に来るものである。各論的な権利など判例で確立させれば十分だ。新権利をちょこちょこ付加するだけでは改正などできない。骨格となる部分の方がはるかに重要である。現行憲法から改正するというのなら。


「憲法改正」は、中国等が言うように軍国主義に向かうだとかは思わない。


日本はそこまで強固一体でない。もっと自由で多様である。だからこそ信念のある人はストレスを感じる。一本化が難しい。


ところで、ぶっちゃければ現在の「憲法改正」の真の目的は、その威勢のいい情緒的な雄たけびとは裏腹に、自衛隊などを現実の状況に合わせる「つじつま合わせ」に過ぎない気がする。


しかし「憲法改正」するならば、それだけでは足りない。


提案しよう。

「俺達にとって公共とは『その場の空気』だ」と憲法に書くのだ。


残念ながら現在の日本の実態としては空気が公共を左右している気がしてならない。ふらふらして信念がなくころころ変わる。国家の信念と思想は、そんな気分屋や勢いに依存したものではないはずだ。もし公共の再定義を行わず、ペタペタと新規の権利を貼り付けて、「国防軍」と墨で大書するだけなら、残念ながらこの提案は実現することになるだろう。


憲法を生み出すもの


■全員をなぎ倒して腑に落ちる状態が作れるか

毛沢東は「政権は銃口から生まれる」と言い、カール・シュミットは「憲法制定権力」をビックバンのような力で一旦生まれると変更できないとした。両者には何か共通点を感じる。


政治家・官僚・学者だけがちょいちょいと憲法を書き変えても憲法は国民に腑に落ちるものにはならないだろう。改正手続きとか、テクニックの問題ではないのだ。


なぜなら日本人にとって「腑に落ちる」ということは重要である。


つまり戦争・内戦に匹敵する激しい衝突と犠牲があってこそ、腑に落ちることができる。西郷隆盛が坂本龍馬と違って内戦を欲したのは700年の封建制を滅ぼすためにはそれが必要だと思ったからであろう。薩長に就くか、幕府に就くか、協力する相手を間違えば庄屋は処刑され、豪商は財産没収される。様子見はできない。


「源平の合戦」や「関が原の戦い」のようにすべてを出し尽くし大多数の民を巻き込んで決着をつけて、はじめて秩序体制の変更が可能である。つまりそれが憲法の本当の改正と言えるものではないか?


私は、憲法改正のため、公共再定義のため、全国民を巻き込んで15年くらいは飽きずに白熱の議論を続けるべきだと思う。