労働という不利な商品 | 日本の構造と世界の最適化

日本の構造と世界の最適化

戦後システムの老朽化といまだ見えぬ「新しい世界」。
古いシステムが自ら自己改革することなどできず、
いっそ「破綻」させ「やむなく転換」させるのが現実的か。

労働という不利な商品

権力システムと日本社会 もし価格メカニズムにおいて、トレーダー目線でなく「人間の生活」という視点に立つならば「労働の価格」=労働賃金というやつが一番厄介ではないだろうか。
それに物価は動くけれども、光熱費(半公共)・家賃・コメ等はほとんど価格が動かない。


「デフレ=値下がり」というだけなら大助かりだが、生活費の多くを占めるものの価格は硬直的である。物価下落の速度より、賃金下落の速度が速ければ価格は赤字になる。赤字にならなくても財布はしまる。


【デフレ停滞】 価格下落 →<賃金伸び悩み>← 生活費・ローン変わらず


年金生活者は別として、賃金以外のもので生活する人はまれだろう。それゆえ「賃金形成のメカニズム」は価格一般論以上に重大であろう。


価格形成における合理的メカニズムは賃金に対して働いているだろうか?賃金・給与は合理的な産物であろうか?


売値のない商品=労働力


流通においても「価格決定権」を持つものが支配的となる。
だから売買交渉において価格が呈示できない側は劣位にある(価格がいいなりなら、交渉でも交換でもなく奉仕または税金のような従属的義務である)。


労働力は一般的に、買値・需要に従うだけの従属的商品となっており、売値がない。
*大物芸人やスポーツ選手などはもちろん別だが、みんなが伝説の「たけし」を見習っても無理である


労働力は、供給側が経済を牛耳ることが多い中で、需要側が牛耳る数少ない「商品」といえる。また需要側は大きな団体だが、労働者は個人事業者のように「労働力」を売る側なので弱い。


「商品」としての労働力売買はギリシア・ローマでとりわけ普及していた。そこでは奴隷を高く売るための努力もなされた。奴隷商人は教養や語学力(ギリシア語など)をアピールして執事用として高く売ったりもしたし、わざわざ教育して商品価値を高めたりした。
現在の人材業は「商品」価値を高めるためにローマの奴隷商人ほどの努力もしない。データベース作成という安易な道を選び過当競争に走っている。
*大企業系以外の零細人材業は安売り競争過多・出店増・不祥事・彼らに敵対的な法規制でクビがしまっていくだろう。
*商品的奴隷が、土地に固定された売られない農奴になったのが西欧における古代から中世への大きな変化であった


奴隷が不動産のように財産の一部であるという認識は『ハンムラビ法典』からも伺える。そして古代の奴隷は失業せず、不要になれば転売された。


労働力が「商品」として需要側より優位にたつことはまれ、というか昨今では特に珍しい。


■そもそも賃金はなぜ上昇するか

だが、優位な時代もあった。人口急減などは労賃をはねあげるが、そこで賃金上昇の競争が起こる。欧州黒死病による人口激減は労賃をあげ、とりわけギルドなど熟練技術者に力を与えた。日本の高度経済成長の高卒は「金の卵」と呼ばれ、企業は地方への電車を貸し切ってまで人材確保に走った。つまり需要と供給という原理が浮かび上がる。


欧州黒死病 

人口の3分の1が消滅 → 労賃上昇 →労働集約型(農奴制)が衰退→

                 合理化(オランダの風力精糖など)    
                  → アフリカ奴隷による大規模農業(砂糖きび)

                       → やがて産業革命へ


最低賃金という物価統制


物価統制は高騰しすぎないためのものだが、最低賃金は下落しすぎないためのもののようだ。しかし、ドイツには法定最低賃金がないように、人類普遍の制度でもない。


          物価統制 = 最低賃金


物価統制は短期的な効果しかない。「需要と供給」の壮絶な無視である。供給が途絶えれば、もはやどんなに紙幣を配ってももはや手に入れることはできない。またヤミ市場ができるように、必然性がある場合は法定最低賃金など骨抜きになってしまう。


企業は「慈善事業じゃねえんだぞ!」と渇をいれるが、従業員には「労働力を無償サービスしろコノヤロ」という。そこでサービス残業という言葉がある。会社は労働者には無償の善意を期待するのである。


もし副業できないほど拘束されて月給2万円のような生活できない賃金を呈示されたら人は集まらない筈である。市場原理が機能していれば、低賃金の企業は労働力を失って淘汰されていくはずだ。だがそうなってはいない。


それは市場原理が機能しなくなるような構造があるからだろう。


そして経済が劣悪で、もはや100人のうち30人しか生存できる余裕がないなら、死ぬか奴隷になるかしかない。どんな待遇でも働くだろう。または囲い込み不当な独占談合がある場合は、どんな条件でも従うしかない。


しかし成熟した経済であれば最低賃金はいらない筈だ。

労働市場が流動的なら、「安い賃金」からちょっとでも「高い賃金」への労働力移転も起こる。だが転職しても不利になることが多いのは、終身雇用による長期「囲い込み」があるからだ。退職金まで含めた生涯賃金で計算すると最低賃金は極めてヘンテコな公共価格である。
*能力よりも真面目で素直・従順な労働者を経営者は好む。仕事を覚えたあとで高い賃金のところへ移らない人とはっきり言えばいいのだ。


昨今の日本産業は、どうもワークシェアリング雇用助成金などで凌いで環境の好転を待っているようだ。


「いろいろあるけど動いてんじゃん」と言えるのは、赤字を垂れ流しながらも政府はカネを出しているからだ。政府からカネが出なくなったら?政府に「ドラエもんのポケット」のような万能の力はない。野党は子供手当て廃止・高校無償化廃止を掲げて政府を倒せるだろうか?カネを渡してるからおとなしいだけだったらどうする?


需要側の理屈


財界が経済を担当しているなどと考えてはいけない。彼らは経済活動の当事者の一方でしかない。彼らには別に自由主義も資本主義も軍国主義も関係ない。労働組合に相対する既存の大企業組合でしかない。そしてベンチャー企業が自らを脅かすことなど許しはしない。


■不況期にだけ成果主義とか言い出す
企業側は個々の労働力や賃金など本当はどうでもいい。
問題は給与名簿という全体であり、総人件費に伴う負担である。


日本の構造と世界の最適化 ちょっと景気回復が見えてくると、大手企業は「やっぱり終身雇用がいい」と言い出す。好況時には「商品」としての労働力の価値が上昇していくので、安く抑えられる終身雇用を好む。また不況期にだけ成果主義とか言い出す。だが営業以外の目標達成指標はあいまいで、不況期に全員が目標達成したら困るので100点とっても未達成にするとかいう操作までやったので、シリコンバレー流とかいう制度も日本では好評ではない。また結果を出すのが困難な不況期の成果主義は、会社にメリットがあるが、結果を出しやすい好況期の成果主義は人件費が膨らんでっしまう。つまり総人件費を減らすための方策であって、新制度とかその他はみんな言い訳なのだ。ここにも本音と建前はある。建前を書いてくれる専門家もたくさんいる。
曖昧な役割・成果基準は社員のやる気喪失を招く(2007/10/12日経ソリューションビジネス)

 好況期=終身雇用を称揚(賃金上昇を抑制) 

          ←→ 不況期=非正規拡大を称揚(人件費削減)
 

要するにご都合主義二枚舌だ。


ワークシェアリングは労使が協調してできあがったが、総人件費が増えないことがミソである。解雇されるはずの仲間の分を同僚みなで負担するという会社親子兄弟のたまものなのだ。需要側である企業にとっては、解雇とワークシェアが同じコストだから合意できた。


正社員がいない会社はつくれるか

ところで、社長以外は全員、請負やアルバイトだったらどうだろう。


コストがかからず合理的に見える。そして今やほとんどの業務が、営業代行まで含めて今はアウトソーシング可能である。これなら正社員を雇う重い負担はない。


しかし成長していった会社にそのような形態はない。欧米でも経営者や管理職や専門職を除いて長期雇用が一般的だ。つまり会社にとって長期雇用は必要であり、終身雇用ともなれば「後払い」である退職金・年功手当で現金の流出を抑えることができる。
*実質「後払い」なので経営者は事業が不採算になっても途中で倒産するわけにはいかなくなる。労働の流動性のなさが産業転換も阻止していくことになる。


■長期雇用でないと悩ましい事態になる
なぜ長期雇用は安心なのか?

労働者を従わせるのが容易だからだ。


有力な得意先をいくつももつ優秀な請負は、赤字の取引断る力がある。請負の交渉態度が強くなると大変だ。企業向けインフラ型サービスで一番安い価格帯のサービスは、立場的には使う側は「お客さま」だが、一切交渉の余地なく、サポートもゼロのサービスである。都合にあわせて乱暴に使いまわすことなどできない。
*リクルートの「お客さま」は路地裏の零細も多いのだが、リクルートは一等地に御殿のようなオフィスを構えている。


雇用でも正社員より負担がなさそうなアルバイトも大変である。例えば突然のドタキャンがある。ドタキャン後に謝罪にすら現れないときもある。使用者は泣き寝入りである。「アルバイト」は「俗語」でそれも雇用契約に違いはないのだが、学生さんの数年以内の副業的仕事という社会的感覚が強い。結局、人間に「言うこと聞かす」のは大変なのだ。逆の意味で日本人であっても状況によれば傲慢なくらい自由にふるまう。


その点、長期雇用は安心だ。

労使双方が生命保険を買ったようなものになる。「言うこと聞かす」のに最適だ。学生時代にアルバイトをいい加減にやっていた者でさえ過労死するまで働かせることができる。個人主義を徹底すれば過労死するまで抵抗せずに働いた者の自業自得なのだ。しかし、日本ではそんな風に個人主義を徹底できる社会環境もない。


家父長的な終身雇用


終身雇用を擁護する意見は多々ある。


日本は長期雇用の保護はドイツ・フランスほど手厚くはなく、だから欧州の国に比べれば労働市場は硬直的でないじゃないかと。「日本はそんなに異常でない」という意見である。「実は欧米並み・日本特殊論に反対」という意見は大昔から繰り返されてきたが、そもそも欧米が絶対正しいというものでもない。
終身雇用・年功賃金は非合理なのか?(2011/02/07ロンドンで怠惰な生活を送りながら日本を思ふ)

無邪気で怠惰な意見だ。
失業給付などの社会保障制度がまったく異なり、「失業の恐怖」が日本では大きいことを見逃している。「失業の恐怖」が大きいから世界では異常な「過労死」になるまで働いてしまうということもあるだろう。さらに、昨今大学側が「3年間は新卒扱いしてくれ」と財界に要求している事実も無視している。「新卒からでないと不幸な経済人生」だから皆が騒いでいる。成長期の昭和30年代に定着し固まったにすぎない制度が長期低迷的には大きな癌になっていることを認識しようとしない。


■日本は法制度という以上に慣行
かつて日米貿易摩擦で市場開放・規制緩和がアメリカから迫れたとき、法制度は次第に開放された。しかし、商慣行が閉鎖的で強力に開放を拒んでいるように見えたので、アメリカはこれを「非関税障壁」と称したりした。イタリアがEUの中でこっそり自国航空会社を支援していたり、EUとアメリカがエアバスとボーイングのそれぞれの補助金をめぐって争っているのを見ると、一方的な日本異常論は確かに不当だ。国家間の闘争にすぎない。


■家父長的組織規範

だが国際関係はともかく雇用において、日本には擬似的な家父長世界がある。それらは確かに日本人の相思相愛の中でできあがったものだろう。戦後左派知識人が「個の確立」など説いたが誰もついていかず、日本的企業社会がどんどん形成されていった。経済成長による果実がある以上は、知識人の理屈よりも現実の生活向上が大事であった。


  会社=家 
  社長=父 専務=女房 
  先輩=兄 

  新入社員=弟


例えば、次長という職位の職責は結構あいまいである。

年功序列階段の部長待機者だから。期待されているのは、部長という父の意向を汲み取って兄として部長の部下の不満を聞いてやり、助言を与えるとか。次長を英語に訳した名刺を作って海外に飛んでも、まったく欧米人には職責がわからないだろう。部長見習いとか・次期部長クラスとかそういう職制はない。


また「職責」という機能ではなく上位・下位という職制で「偉い」という序列感覚が会社組織を維持している。


そして「誰か一人に責任を押し付けるのはかわいそうだ」ということで「みんなで声をかけあう」となり、「責任者」という人がやたらたくさんいる。ところが責任だけあって決定権はもっと上にあったりもするからややこしい。それらは権限委譲による分掌とは異なるものだ。


その仕組みを「これでいいんだ!」と肯定するのはともかく、なぜか欧米式のマネジメントシステムを次から次へと流行のように導入しようとする。環境・品質のISO、会社法で大会社に強制となった内部統制システムなどの内容はトップダウンによる数値制御などとても非日本的なのだが。。


贈与契約としての雇用


「交換経済」は対価が厳しく問われる緊張感のある契約を生み出す。道徳すら通じないかもしれない異郷から資源を手に入れるのだから。
*ローマ教皇はイスラム教徒のコーヒー豆に洗礼を施し、コーヒー豆はカソリックになったので欧州でコーヒーが飲めるようになった。異教徒のモノだが「欲しい!」というものが「交換経済」だ。
*交換に失敗すると争いごと・戦争になる。それゆえ緊張感がある。
*戦争は道徳的に忌避されるだけでなく、そのコストが双方にとって重いので条約などが発達したといえる


それ以前のより小規模な原始社会には「贈与経済」があった。


これは損益計算書のようにはいかない。「より多くを与えた者が得をする」のだから。「交換経済」では無償の供与は損をする形になる。贈物をもらって返さなかったらトクしたことになるが、「贈与経済」の社会においては「もらいっぱなし」社会的地位を失う。恩を返さなければ道徳的に劣後する。贈り物にはそれを上回る贈り物を返す。これで相手に優位にたてる。ところがまた相手がさらに上回る贈り物をして。。


贈り物合戦を繰り返す長期的・半永久的関係が理想となる。それゆえ商売でも途中でつきあいを止められない。贈与合戦に終わりはないので途中で止めればどちらかが損をしかねない。貸し借りがあれば恋愛関係よりも強い絆となる。
*しかしバブル崩壊後、銀行は突然に態度を変え贈り物合戦を停止し、一旦全額返すよう要求した


日本の雇用慣行にも「贈与経済」の感覚が強くにじんでいる気がする。


まず新入社員は奉仕してからなんぼである。会社と社員が契約上対等?給与条件などを聞くことにも抵抗がある。最初の給料日に自分の給料を知ったという話もある。
*日本のハローワークは「福利厚生とか待遇とか聞かないほうがいいよ」とアドバイスしてくれる

*社会保障は削れないというがハローワークは削れるのでは?

*私自身は社長から「悪いようにはしねえ」といわれたことがある


殺人・強姦は法律に書いてなくて大罪である。『労働基準法』を無視するのは悪でもなければ罪でもないというのが日本の感覚であろう。
*警察官が遅刻しそうになったので自転車を盗んだ事件があったが、他人の自転車を盗む罪と、親である職場に遅刻する罪では後者のほうが大きいという判断だったのだろう。
*労働基準監督署で署員一人が2000社も担当している現実において、監督署の実効性はきわめて薄い

*労基署を廃止してすべて訴訟にしたら社会保障費といってもずいぶん削れるのでは?


実は「贈与経済」関係という倫理が動いており、社会では『労働基準法』より優越しているともいえる。


まず、労働者が「贈り物」をする。受け取ってから初めて給料という形で会社は「贈り物」を返す(会社としては貰ったものより多くを返したつもりである)。そうやって長期に労働者と企業が贈物合戦を行う。だから給与条件を聞くなどナンセンスなのだ。最後に会社は「退職金」という大きなものを返して終わる。
*皮肉なことに派遣などでは外注費扱いなのでより「交換経済」のようになっており、派遣のサービス残業など聞かない


別に日本だけのことではなく「贈与経済」観念というのは実はあちこちにある。


自由主義と市場経済


共産主義による国有と強制分配・社会主義による分配統制、そういったものを「信じている!」という発言には滅多にお目にかかるものではない。


では「自由主義と市場経済を信じているか?」といえばそうでもない。じゃあ何を信じているんだ?さあ?親方日の丸かな?


共産主義社会主義が経済を強くしない、などということは誰でも言える。経済体が統制の下で強くなることはない。そして、労働者も経済体である。


なのに、なぜ労働に統制を持ち込もうとするのか?


労働という「商品」が強くなるためには、統制ではなく、売り手が商業的に強くなる仕組みがいる。「弱者・守れ」という視点であるなら、それは特定少数向けの例外的措置であるべき。


日本の労組は、バブル崩壊によって「対価のかわりに長期的保障」という根本が崩れたのだから左翼的に総括して転換すべきだ。労組が「正社員のこれまでどおりの保障」と引換えに「非正規のさらなる自由化」に合意したのであり、自ら根本を壊したのだからツジツマあわせるべきだ。


もっとも大事なのは賃金相場であり労働対価であったはずだ。
社会主義的な「分配」と階級闘争にとらわれた日本の労組は、経済とりわけ市場・労働という「商品」を真剣に見ようとしてなかった。カローシという言葉を世界にはやらせるくらい無能な労組であった。「死」があっても終身雇用を選択している。
iPhoneでも利用可能なゲームKaroshi(the goal is to die from overwork)
Death by overwork in Japan(2007/12/19英エコノミスト誌)
*過労死が成立しているのは、経営者のせいというより、それを「仕方がない」と受容している労働者と労組のせいでもある。買い手ができるだけ安く買いたいという合理的思考をとるのを叩くことに意味はない。


そして転換するなら、「労働という商品」を、そしてその価格を経済的に劣位に立たせている慣行をターゲットにするべきだ。転職したら損するとかそういう部分だ。


 労働を高く売る方策 ← → 長期保障を最重視する労組

                     終身雇用を好む企業

                    サラリーマン番頭の財界

                 終身雇用をベースとする社会保障 



終身雇用の商品的不当性


■後払いシステム
退職金は1000万円以上など莫大な額であり、長く勤めれば辞めるのが損になる仕組みだ。2000万円の退職金を40年勤続後にもらうとすれば年間50万円の所得が後払いされたことになる。


商品・サービスを供給しつづけて数十年後まとめて一部後払いするようなものだ。そのような財・サービスは労働だけではないか。

*お前はいい加減な人間だから・・ということで親的社長が給料から抜いて将来のため積立ておくような家父長的な感覚もあるかもしれない。


これで最低賃金や自給の市場比較が無意味になる。非正規と正規の比較ができなくなる。サラリーマンの月給を単純に派遣スタッフと比較しただけでは意味がない。いかに正社員が優遇されているかということだ。


おまけに退職金2000万円以下ならほぼ非課税になるだろう。(課税上は給与所得とは別扱いになる)それなら非正規のほうが所得負担が相対的に重いことにもなる。
退職所得の課税方法について(藤沢市)


■偶発的利益としてのボーナス?
労働の対価
を求めるとき、ボーナスという奴は個人の成果などにかかわらず、会社が余剰を叩き出したかによる。


請負や外注成功報酬を常に要求できるわけではない。だが雇用なら可能ということだ。偶発的利益があればなにがしか分配する。いや、分配するというより、賃金を低く抑えておいて会社の社会保障負担を減らすこともできる。


これも請負よりも正社員のほうが都合がいい理由だ。


■いろんな手当てと経費処理
派遣スタッフには交通費は出ないが、正社員には出るのが通常である。


また年功で上にあがるとタクシー券など経費が使えたりする。会社によっては職位に明確に額付けせず、管理部門が「これは良し、これは出さない」という曖昧なものもある。ちなみにオーナー社長ならその経費に一切の限界がないのが通常であろう。


さらに、部下と飲みに行くのも交際費になったりする。これはよく考えると福利厚生費か現物支給である。税務上も、さすがに全額営業経費とは認められていない。


領収書をかき集める会社もある。中には白紙領収書をサービスとしてばらまいてくれる飯屋もある。また外国に行っても経費で落とすため領収書に社名を記入してもらおうとする。どうもこれは日本だけの慣行なのだが。

*欧米では飯を経費でおごれるのは社長のトップ営業くらい

*トップ営業以外では夜に客と飲むのはなく、昼に立食ランチくらいだ


■価格形成
終身雇用では入り口である新卒入社時がすべてある。
それ以外では市場の影響は受けにくい。


だが新卒には市場価格を形成するには、職業経験はなく、ポテンシャル・学歴採用となる。採用・非採用の相思相愛はあいまいなものだろう。なぜなら、日本は先進諸国の中では職場でノイローゼ・ストレスで悩む人が多い。知らずに入社して悩むことになる。「がんばります!」というヤル気の雰囲気で優って採用されたのにノイローゼになる。心と身体が分裂している。


つまり採用も初任給もあまり合理的ではなく、ブランドとか雰囲気とか突破力とかが決め手になってしまう。


これでは合理的価格形成が行われたとはいえない。

このような状況の中で、欧米的日本労働法令でもって、「雇い主と雇われ人は雇用契約上は対等である」といってもフィクションでしかない。現実の中に踏み込まなければ。


■残念ながら

ただ、どんな指導者が現れようと終身雇用を突然解体することは現実にはできないだろう。


住宅ローン・確定型年金を抱えた終身雇用の正社員の大群がいる。いまだに労働者の6割は正社員である。また官僚叩きがはやったが、いまだに官僚が弱体化したわけでもない。騒いだから変わるものでもない。


だいいち、劇的な改革をやれば、終身雇用を前提にしたローン債務を抱えた人が損をすることになろう。


しかし「雰囲気の共同体」である日本で、絶対に解体されそうにない終身雇用システムに噛み付くことは無意味ではないと感じる。大事なのは不確実な時代における認識ではないか。


労働力が真に「商品」になれば革命だ


「家」としての会社は、個人商店型経営が多かった戦前の事業はともかく、21世紀の日本では無意味な観念となりつつある。グローバルな日本企業は盛んに外国人を雇用している。経済同友会も、海外に本社を置き、一流のグローバル人材を集めないとグローバル競争で劣後することを説いたことがあった。


もちろん日本にとどまってあくまで家父長的年功序列の経営をやるのは勝手だ。

しかし「贈与経済」型の長期的関係の企業取引も今後は怪しい。頼みにしていた親であるメーカもどんどん外国企業をサプライヤとして使ったりしている。「企業城下町(大手メーカは殿様)」というのも昔の話である。親分子分関係を親分が放り出していっている状況である。


考えてみれば、歴史的には日本人全般は異郷との取引をする必要のない世界で生きてきた。身内でもなければ倫理感も異なる世界と直接つながる必要はなかった。狭くて貧しい農業社会の中で貸し借り関係で「贈与経済」を繰り返し生きてきた。それが誇りであったし、別に何も悪くはない。日本は言語的にも孤立言語で、ユニークな国である。


しかし日本経済が莫大な輸出入によって現在の生活水準をもたらすようになったのなら、精神が小さな村の中に閉じこもっていては成り立たなくなるだろう。もう世界と連動している。生活水準を下げたくないなら。だから「交換経済」が必要だ。

*現在の生活水準を下げて皆で衰退するという選択肢ももちろんある

*他国を制圧し、日本型システムを標準として普及させる力がないというなら、自らを変えるしかない


そして労働力も「交換経済」としてあるべきだ。


労働者が個人であり、需要側が団体であるという不均衡においては、従来型労組ではなく、「商品」としての価値を高めるシステムがいる。政府が関与するというなら、時代錯誤で厚労省の人間を食わせるためのムダな職業訓練ではなく、若年者などに向けた大胆なインターンや徒弟制度がいる。日本の現実からいっても、お勉強や資格よりも、就業経験のほうが価値が高いのだから。


■空想的な話

たとえば企業の求人(買値付け)を禁止し、これからは労働者の求職情報(売値)しか出せないようにしたら。そこで人材紹介が労働者からカネをもらって経営し、求人企業からカネを受け取ってはいけないようにする。今よりはずいぶん売値主導になるのでは?まあこれも統制だが。。


とにかく労働力が「商品」としての力を取戻すには、売値づけが大事だ。また、そのほうが面接は難しいと思う。なぜそれだけの金銭価値があるのかアピールしなければならない。


「商品」としての人間をどうしたらもっと高値で売ることができるかみんなもっと考えるべきだ。そうなれば人間は、いわゆる高度産業社会における人間疎外に打ち勝つこともできるだろう。