近代の排他性と封建制
日本人は資本主義を腹の底では嫌っている。さりとて共産主義者になるわけにもいかず、どっちつかずで資本主義に対して真剣でない。
しかし、やはり経済が人間世界の核ではあろう。そしてそれが社会主義であれ、経済原則は動いている。歴史上の専制君主が悪貨を鋳造しても経済は誤魔化せなかった。バブルをこしらえれば破裂する。どんな人為的なスローガンを掲げようが、経済は流れ変質していく。経済にはそんな真実がある。
経済活動は、古代以前から連綿と続いてきた。しかし、近代資本主義は人類史上の大きな転換によって生まれた構造ともいえた。
何が違うというのか?
ところで近代資本主義の根本には、近代「所有権」がある。これも江戸時代には存在せず、それこそ近代が生み出した所産である。そして、近代以降の世界の原理がつまっている。
自由な個人=私有財産制=所有権
所有のあいまいさ
■「所有の観念」
あなたは、所有していることを証明できるか?
あなたが沖縄在住で北海道の土地を所有しているとき、近代以前ではこれを証明することはかなり困難だった。蔵の奥に閉まってある証文を取り出してきてようやく証明できる。しかしそれは万人に対し一目瞭然ではない。
つまり「所有」は観念にすぎない。これに対して「占有」(所持)は具体的事実状態である。ケータイを所持している人は、ケータイの占有を簡単に万人に対し証明できる。「所有」とはかくも難しいことなのだ。
なぜこんなにも曖昧で抽象的な「所有の観念」が近代以降重要になったのか?
■あいまいな土地支配とサムライ
武士が生み出されたたのは、中央の土地裁定権の弱体化のせいともいえる。武士とは、軍人ではなく、「自力救済」を行う地域武装勢力であった。「新皇」を自称して朝敵となった平将門も、親族間の土地争いを発端として狼煙をあげた。
・坂東平氏一族の土地争い「承平天慶の乱」(wikipedia)
不安定な土地帰属、中央の腐敗、地域間の紛争の中で、古代の「征夷大将軍」が引っ張り出されて、中世には武士をまとめ裁定を行う権力が出現するようになった。
しかし土地係争・所有をめぐる問題は続いた。例えば、兄が中央で地位を得るが地所を不在がち、弟が地域番頭と組んで地所を乗っ取る。こんなことが中世には各地で繰り広げられた。守護大名が弱体化し、織田・朝倉など守護代(地域番頭)が実権を掌握し、足利幕府の体制がほころんでいったのは、「所有の難しさ」を物語っている。
*織田信長は尾張国主ですらなかった。主筋の守護大名・斯波氏は越前・尾張・遠江など管領として大きな所領を持ったが飛地支配だったこともあり実権を失っていく。
*織田家起源は、越前に「織田荘」があることから、越前出身とされる。信長は、織田正統の「伊勢守家」をはねのけて、斯波氏を擁した「大和守家」があったが、そのさらなる分家「弾正忠家」の子息であり、父信秀が武力と商業力で実権を打ち立ててくれていたのだ
*尾張所領「伊勢守家(三郡)」「大和守家(四郡)」「弾正忠家(一郡)」
徳川家康を輩出する三河は、足利一族の荘園が点在していた地域であり、武田・今川のような強大な在地名門がおらず、一族親族闘争で細かく分裂した。このためか無名の松平家が台頭していき乗っ取られてしまう。所有権もクソもない。
・鎌倉末期の足利氏の所領(電猫細見)
*(全部が清和源氏足利系)足利将軍家→吉良家(三河)→今川家(駿河)
*「承久の乱」の功績で東国の足利氏が三河に所領を得て以来
*最終的に三河吉良一族は松平家康に降伏
*吉良家は名門だったので保存され、赤穂浪士事件(吉良上野介)にも登場する
自然的には、「占有」し日常的に管理している者の方が強い。
江戸時代においても、近代法をあてはめるのが難しい重層的な土地利用関係があった。大名は土地所有権者というより、「知行権」を公認されているにすぎない。所有権というより領域内の徴税権と警察権である。かといって田畑が百姓の所有物ともいえない。徳川幕府が耕作地売買を禁止したので、より土地所有権の観念は薄くなっていった。
*「公地公民」をもたらした律令制の残した根は大きく、独立国のような排他的所有の観念は日本の支配層にはなかった。これは西欧中世の領主権とは異なる。
*近世には土地公認と支配にかかわる「土地知行」から「蔵米知行」・金融化への移行が起こった
・蔵米知行(wikipedia)
土地の排他的支配の実現
近代所有権をもたらす上で活気的な歴史事象はイギリスなど欧州にある。
■中世における「落穂拾い」や非自営農の生存権
欧州の農業は、11世紀頃の「農業革命」により三圃制などが普及していた。乱暴にいえば、耕作地を放牧にも使いまわす方式である。放牧は地縁集団が土地を共同広域利用した。耕作も共同化した形態もある。
・中世農業革命 その1(紗瑠々の資料室 【中世ヨーロッパ情報館】)
森林泥地からの薪や泥土燃料などは、地縁共同体が無償で利用できた。耕作地と異なり、これらの土地は誰のものでもない。
*明治立法家は、悩んだあげく日本の山野などの地縁共同利用(共有ではなく総有)について「入会権」として残した。現在でも登記なしに「入会地」を対抗できる。
耕作地や放牧地を持たない貧しい集団も、繁忙期の臨時労働力となり、相互補完状態にあった。さらに「落穂拾い」などが旧約聖書レビ記が認める慣行として「貧者の権利」と化していた。落穂を残さずに収穫してしまうことは反宗教的なこととして戒められていた。
*中世の麦収穫は稲作より大雑把で、収穫後に落穂が残される
レビ記19.9: あなたがたの土地の収穫を刈り入れるときは、
畑の隅々まで刈ってはならない。
あなたの収穫の落ち穂を集めてはならない。
もし、現在「落穂拾い」をやったなら、不法侵入罪・窃盗罪・浮浪罪(軽犯罪法)で容赦なく逮捕される。近代とそれ以前はこんなにも違う。近代では排他性が強化されているのだ。
*『軽犯罪法』は浮浪・乞食・廃屋たむろなどを逮捕できる
「中世は暗黒時代」と言われるが、土地利用についてはその集落の中で「部分最適」が成立していたのかもしれない。それは地域構成員全体の生命保全という観点もあった。このような共益権がある状態では、排他的な個人所有は不可能である。
一方、日本では、中世の集合的な「惣村」は、豊臣秀吉らによって解体され、再び世帯単位の農業「本百姓主義(個人零細農)」になる。ただ、水利や山野において共同利用形態は残った。
*「刀狩り」は実は徹底しなかったが、それ以上に有力百姓複数世帯が一つの館に住んで集団化を強め「土豪」と化していくような仕組みを解体した影響は大きかった。複数世帯の同居は禁止された。日本の中世はこれで終わる。
■第二次エンクロージャー(囲い込み・中世解体)
この中世土地利用はイギリスでは議会主導で破壊された。集約農業(ノーフォーク農法)をやりたい地主(有力所有者)の排他的支配の欲求があった。また、資本家(賃借人)の広域賃借の欲求とも合致していく。
賃借人が資本家(事業者)であったためか、賃借権が一方的に弱いこともなかった。また、のちに資本家の力が地主を凌駕していく。
*明治民法では、賃借人に小作農民を想定していたため、儒教道義的観点から賃借権が極めて弱いという日本近代を招いた。現在でも家賃では「礼金」というものを払う。
*借地借家法への批判もよくあるが、その前に日本民法も「民法出でて忠孝滅ぶ」の影響を受けて地主小作の上下関係が刷り込まれていることはあまり認識されていない
■ドイツ農民戦争(近代への抵抗)
ドイツ領邦では、後に、宗教改革混乱期に「ドイツ農民戦争」が勃発する。これも近代所有権への抵抗だった。共同利用形態にある森林を、財政難などで困窮した領主層が木材輸出など現金収入のために囲い込もうとしたことも原因としてあった。森林とはゲルマン的世界の象徴であり農民が豚等を飼育する共有地であった。しかし抵抗があろうと中世欧州土地支配制度は次第に壊れていった。
・ドイツ農民12箇条5条・貴族への共同森林伐採禁止(wikipedia)
■アメリカ植民(権利のある零細農)
アメリカでは、伝統的な土地支配関係がなく、入植当初に植民者に現物支給として給付された土地権が個人主義的所有の伝統を作っていった。また西部開拓は、大手事業家が投機的に広域を取得し、零細農にバラ売りする形態で進んでいった。それは民間銀行の紙幣増発によって拡張していくバブル経済でもあった。
封建的共同利用から脱した新しい土地支配形態では、収益性が重視され、投資はより生産性を追及し、合理的生産によって農業生産量が格段に拡大していくことになる。生産の規模拡大と合理化のためには、管理主体が一元化する必要があり、地縁的共同利用を排他性によって壊す必要があったといえよう。