自殺対策は無意味だ | 日本の構造と世界の最適化

日本の構造と世界の最適化

戦後システムの老朽化といまだ見えぬ「新しい世界」。
古いシステムが自ら自己改革することなどできず、
いっそ「破綻」させ「やむなく転換」させるのが現実的か。

自殺という人間的なもの
「自殺は個人の勝手」とはいえないようだ。だからこそ社会問題になっている。日本の自殺者は年間3万
人・うつ病は少なくとも300万人ともされる。うつ病は病気健康をうわまわる自殺原因だそうだ。


お笑い芸人のマネ(模倣)がブームになるように、自殺報道で自殺ブームが起こることもある。ある意味、新たな自殺方法の情報提供にもなってしまう。それゆえか、さまざまなメディア規制も世界的に実施されてきている。
X JAPAN:hideの死(wikipedia)
これでいいのか! テレビの自殺報道規定(2006.06.11JCASTニュース)

動物は自殺しない。「死」というのは人間にだって恐怖だ。「死」から逃れるために人類は文明を発達させてきたともいえるかも。しかし人間は自殺する。そこに人間が動物と圧倒的に異なる点ではないか。


動物は危機を察知すると、それに反応し緊張する。人間の「不安」の場合は、目前の危機以外のものが対象になっている。「不安」に蝕まれると不必要な緊張状態が続き、消耗しきってしまうことになる。人間はいろいろシュミレーションできるために自殺してしまうのであろうか?


また動物と違って人間はまず自己が最終的には死ぬことを知っている。そうすると「どうせ頑張っても最終的には死なんだから・・」という虚無に堕ちることにもなってしまう。


自殺と不況
よく「なんでも社会のせいにするな!」という言葉がある。これはゆがんだ社会主義的なものに対する嫌
悪でもあろう。努力せずに生活していきたいだとか、自分を棚にあげて「社会が悪い!政府は何をやっている!」と騒ぎ立てることや甘えへの嫌悪であろうか。自殺も同様で「自殺者の増大」を社会のせいにするべきではないかもしれない。


3万人の自殺者の半数が無職である。しかし失業率が増大する前から自殺者数は多かった。必ずしも失業・不況と自殺はリンクしているわけではない。無職に続くのは被雇用者である。また自殺原因として未成年は「いじめ」・若者は「うつ病」・中年以上老人は「健康不安」であろうか。
年3万人超える日本の自殺者と日中の貧富比べ~北野監督の指摘(Record China)
職業別自殺者数(警察庁・厚生労働省資料より)
自殺の原因「うつ病」がトップ 10年連続3万人、60歳以上は最多(2008.06.19共同通信)

経済がよければ自殺が少ないというわけではない
モンゴルより中国のほうが自殺率が高く、アフリカより南米のほうが自殺率が高い。イタリアは先進国の
中で経済はダメなほうだが自殺率は一定して低い。日本は先進国の中では自殺率は高い。現在のレベルは1950年代の水準である。それは、ドッジラインによるデフレの苦しみが朝鮮特需によって吹き飛ばされ、確かな経済成長への道を踏み出していく時代であった。つまり景気回復期にも自殺は増加しうる


価値観の転換も大きな影響をもつのかもしれない。時代がガラガラと音をたてて古い時代を踏み潰していくとき、精神的についていけない人たちが出てくる。たとえば旧共産圏(東欧など)の自殺率はトップレベルだ。
国の自殺率順リスト(wikipedia)

主要国の自殺推移

どうも、「自殺が多い悪い国だ!」というのはアンチ自公政権のためのメッセージであったような気すらする。問題は与野党を超えたものではないだろうか?


自殺の抑制
「自殺が良くないこと」という前提に立つと、社会が自殺を防止しなければならない。

宗教は自殺を抑制しようとしてきた。キリスト教の場合は「殉教」ブームへの反動として自殺禁止へ向かったようである。ただ宗教は一方で「死」をむしろ歓迎するような一面もあり、必ずしも自殺禁止が根幹にあるわけではなかった。真言宗の即身仏は当時の価値観では自殺とはいえないが、「死」が高度に賞揚される例であろう。


キリスト教では、中世から自殺は神への背信とみなすことになった。こうした背景からか、西欧では現在でも自殺が犯罪となっている国もある。日本の儒教倫理では、親からもらった身体・命を台無しにする親に対する罪(不孝)などとも観念される。また恋仲にある男女の心中が多発したときには、徳川幕府は『心中禁止令』を定めている。


宗教のような形で「死」が解釈されると、「死」は絶対的消滅でなくなる。そして「魂は死なない」と信じてしまえば、自殺しても自分が消えてラクになれるわけではないので、自殺は抑制されてしまう


宗教は人生になんらかの救いやユートピア幻想を与えることができるのだろう。また「死」の恐怖や虚無を克服させるのかもしれない。


科学がもたらす虚無
しかし、いまや近代を経て科学の時代。「死んだあの人は天国へ行ったんだよ」と子供に教えるのは素敵
だ。ただ、どうしても「死」は絶対的消滅ということになりがちだ。また「死」を考えれば「人は何のために生きるのか」という困難な課題に直面してしまうし、日常が虚無になってしまう。


臓器移植をめぐって「死とは何なのか?」という議論が国会でもされたが、人類が永年悩んできた課題のわりには薄っぺらい議論だった。


また、現在の刑法では自殺それ自体は犯罪ではない。自殺そのものを禁止し罪とすることは、全体主義はないかという見解もある。中世カトリックの「死ぬのは神が許さない」というのも、今ではひどく残酷な精神支配だとも捉えられるかもしれない。
*ただし日本で自殺幇助は刑事犯罪である。


過度の平等・集団化による強迫観念
分際のない世界
身分制の封建社会では、なぜ低い身分に永遠にとどまることを悲観する自殺が少なかったのか?(統計や資料があるかどうか知らないが・・)


永遠に貧乏小作人とか、永遠に重労働・魚どころか米すら食えないとか。挙句の果てに貧しさから親を山に捨てにいくとか。年貢負担が重くなりすぎると、百姓は集団自殺よりも年貢軽減一揆をやった。古代ギリシアなど奴隷制度があった社会でも奴隷が絶望して大量自殺するという話はあまり聞かない。奴隷達が「いじめ」の被害者のように次々と自殺したということもあまり聞かない。


しかし現代人は経済社会のストレスが大きくなると自殺してしまう。自殺を誘発しやすい「うつ病」は現代特有の精神世界が大きく影響しているのではないだろうか。劣等感などが「うつ病」の原因としてあるのではないかと思う。


劣等感と平等
高度経済成長・「上を向いて歩こう」・ポジティブ思考・立身出世などがもたらしたものは何だったのだ
ろう?そういう社会は「分際」というものを奪い、「平等=人並みになること」へのプレッシャーを強烈にかけている気がする。つまり、永遠の成長に向かって全体を引き上げ平均点を上昇させる。そして競争が奨励される。


落ちこぼれなどを日本的に「恥」ととらえれば、人並みですらないことは「生き恥」という精神的苦痛になる。


だからといって上昇志向を否定することはできない。国家の繁栄・停滞からの脱出、企業でいえば赤字からの脱却・売上の増加。上昇があってこそ、雇用・賃金も増やすことができ、社会保障も拡充することもでき、経済弱者もより多く救うことができる。これを否定することができようか?


「うつ病」の人に言ってはいけない言葉というものがあるらしいが、それはベンチャー企業などでは実施不可能であろう。小資本・無名などの弱点を跳ね返し、競争に打ち勝たなくては生存できないベンチャー企業では「うつ病」にかまっている余裕がない。「とっとと病院行け!」という程度でないか。


劣等感や「人並み」への欲求の背後に、われわれが金科玉条のごとくたてまつっている「平等」が隠されている気がする。


明治維新という近代化が与えたのは、「国民という平等化」であった。それは標準という統一基準をもたらす。家柄による武人集団が消滅し、徴兵制による国民軍ができあがったが、それは年功序列の平等な軍隊だった。


そして徴兵検査合格は、一人前の男の印となっていき、田舎では「甲種合格」がもてはやされるようになる。そこで、徴兵不合格者(「乙種合格」者など)による殺人事件が勃発したりする。江戸時代の百姓にこのようなプレッシャーがあったとも思えない。平等の中には「普通(標準)」が隠されているのだ。
津山事件(wikipedia)

身分制を打ち破ったのが近代の誇りである。しかし、皮肉にも身分制は争いを凍結する機能があり、平等となると新たな序列を求めて争いが発生する。それがポジティブに昇華されたのが競争であろう。受験競争・出世競争・企業競争などそれらは否定できないポジティブな結果を求めている。


つまり、人は平等を欲しながらも平等では不安なのだ。自分の存在価値を求めるために常に序列を求めるのだ。また社会が発展するためにも競争が必要だ。お笑いでM1グランプリがあることは、お笑い全体のレベルを高めることになる。そうでなく、みんなが同じ扱いでは、全体のレベルが落ちるし、個々が埋没して死んでしまう。平等ならば差異を新たにつくっていかなくてはならないのである。「機会の平等」というのは明らかに、フェアな競争のための土台だ。


社会の型と過度の集団化
社会はときには選挙でもって国家権力すら脅す力をもっているように思える。社会が求める人間だとか、
社会的理想であるとか、法律を超えてそれらは大きな常識・型として個々を支配している。


ところが社会などという単一の団体があるわけではない。それは与党・野党・各種団体・企業・集落など頭もなく、さまざまな分裂した・もやもやした集合体のようなものだ。


国家という法的システムによってそれは統合され、マスコミによって各種の見解がデフォルメされ増幅されている。マスコミも含めて何らかの権威が断罪するとき、あたかも生贄にむらがるかのような攻撃が煽動される。社会の最大公約数的価値観といったのものが、権威によってより先鋭化されてしまう。そして社会が求める型が強化される。たけしは「たかが芸人の言うことを・・」とよく言っていたが、いまや芸人やタレントにも社会の型ははめられ、無意識的でもはみ出ることに社会的制裁・商業的リスクが負わされている。
倖田來未「羊水腐る発言」(2008.02.02ネタりか)

ところで劣等感や自己嫌悪にかられる人はまるで徹底的に社会的価値に従順な人間である。確信犯的に約束しても裏切って知らん顔をするとか、そういう「ずるさ」はない。会社に迷惑をかけることを屁とも思わず横領したりする人に自己嫌悪はないだろう。上司に敬礼をしてゴマをすりながら「こいつバカだな」と心の奥底で笑っている人間にも劣等感はないであろう。


従順な人は「うつ病」になりやすいのではないか。なぜなら決して他人の基準での合格点はとれないからだ。自分以外の型に必死に自己をはめこむ作業は悲劇的だ。そういう人こし、さらに合格点がとれないことに対する大きな恐怖自己嫌悪が襲ってくる。


自分がこの宇宙に存在することに誰も文句はいわないし言わせない本能。それが「生」ではないか。しかし、社会は社会的価値への離反を形式的ペナルティで済ませるつもりはない。まるで社会が絶対になり個人は部品になるようなそんなものだ。企業で責任ある仕事を誇りをもってやりながら、プレッシャーを感じるな、というのも難しい。社会に逆らった途端に餓死するような強迫観念にかられる場合もあるだろう。


しかし、本来は仕事も生きていく手段・方便ではないか?

それなのに、自分の生命すべてを捧げ、他人や組織に自己を従属させる場としての職場、という観念になっているのではないか?そして合理化が徹底され「ガス抜き」の隙間すらない共同体となっていっているのではないだろうか?また仕事一筋の人は理想化されるが、働かなくても食っていける資産があれば、本当はその人は別のことをやっているのではないか?


近代以前は、集団の単位は小さかった。また集団の内部に自治的集団があるという階層的構造であった。産業社会は、集団化をうながした。戦後はさらにそれは顕著になった。自営業よりも企業のほうが生産性が高い。ならば生産性がより高い体制へ向かっていくのが資本主義であろう。また教育も公共教育となるとコストの観点からマスプロ教育にならざるを得ない。企業でも一人のマネージャーの管理できる人員がでかければでかいほど優秀とされるだろう。あらゆるものが大集団と化していった。


こういった大集団では個人の存在意義・人格性は希薄になる。賛成・反対の数であったり、試験のような点数であったり、個人の把握は科学的数値になってしまう。そうした集団の中では、正式な競争ももちろんあるが、非公式な方法でも競争が行われている。そのひとつが「いじめ」ではないか。


いじめる側は、集団内で孤独・孤立した存在ではない。むしろ反対者の出ない状態で徒党を組んで「いじめ」を行うことで、優越的地位を得ようとする。平等な大集団で埋没した「自己の存在」を取り戻そうとするのである。さらに「いじめ」がゲーム化することで加害者側は、非人格的システムの枠外で、能動的自己を見出すことができる。


「人徳」が大事だと言わない人はいない。しかし、「人徳」のような人格がランキングされる仕組みはなかなかない。現実的には、学校の成績・スポーツの得点・営業の売上など科学的数値が大きくものをいう。こうした非人格的集団において、「いじめ」は皮肉にも原始的な人格回復の手段といえよう。ただそれは暴力など動物的手段を用いるし、陰湿なゲームとしての形をもとり、道徳的に悪とされている形である。さらに「いじめ」の被害者は、平等であるべき世界で、落ちこぼれた者として自己嫌悪という呪縛に堕ちる。「いじめられる方も悪い・もっと強くなれ!」というのも良く聞かれる見解である。


「いじめ」はどっちが悪いという単純なものではなく、現在の平等化された過度の非人格的大集団というもの自体が原因ではないか。


自殺対策の愚かさ
自殺を誘発する原因がかくの如くであるとき、科学的・官僚的方法で自殺減少を数値目標として公務員が
取り組んでも自殺は減るものではない。さらに「うつ病」も解消できるものでもない。「カウンセラーに料金を払って5回通えば平均的サラリーマン戦士に復帰!」というほど機械的にもいかないだろう。


教育をみれば、平等を徹底するがゆえにマークシート・○×式試験・知識偏重・コンピューター採点という非人格的方法なのであり、国民全員に平等教育を施そうとすればするほど大集団教育になっていく。集団性を学ぶことは必要だが、50~100名になれば個人は完全に埋没してしまう。さらに教育における数値競を否定することもまたできないのだ。


つまり、われわれは平等・競争・科学・生産性を否定することはできない。われわれは「貧困を憎む」と言わずに「格差」を問題視するように。洗脳された覚えはないのに、社会的価値はかくも強烈にわれわれを支配している。だから自殺対策はアクセスを踏み込んだままブレーキをかけるような矛盾になる。


自殺対策の番組のあと、「玄関開けたら2分でご飯」・浜崎あゆみが「ウィダーinゼリー(10秒メシ)」を薦め、24時間闘えるドリンク剤が宣伝されている。そういう矛盾なのだ。そんなに合理的で時間のゆとりもなく長時間仕事に没頭するなら、ある一定数の人はストレスが溜まり「うつ病」にもなり、また過労死も発生するだろう。経営側からいえば、食事時間に10秒しかかけない労働者は優秀であり、生産性向上に寄与する。
ウィダーinゼリー(10秒メシ)CM(youtube)

生きる意志
ところで強烈な欲望・意思・目的にとりつかれた人は苦難があっても自殺はしないだろう。しかし、これ
は個々人の生の問題で、欲望の弱い人の欲望を強化する有効な方法などない。他人に強制された自己の欲望など、さらなる自己拘束という呪縛に他ならないと思う。


いろんな自殺理由があるが、病苦などの耐え難い苦痛からの解放の場合。
「どんなに苦しくても生きろ」「意味がなくても生きろ」「余命数ヶ月でも最後まで生きろ」というには
根拠がいる。しかし納得できる理由は聞いた試しがない。


ニーチェのような「永劫回帰の思想」で納得するのは難しい。苦痛と希望の循環を永遠なものとして強固な意志でうけとめるのはたやすくなさそうだ。


古代スパルタやナチス・ドイツの発想でいくと、虚弱な人間は死ぬのが・もしくは殺してしまうのが良いことになる。ダーウィン主義によれば、優良でたくましい生命力にあふれた種が残って繁栄し、弱く劣等な生命は遺伝子を残すべきでないことになる。となれば、自殺するような弱い種が子孫を残さず滅びるのは良いということにもなってしまう。とらえようによっては人道的には恐ろしい考えだととらえる人もいることだろう。


生命は一体どうして価値があるのか?
それは本来・生命はダメだといっても抗う力であり、それ自体が恒星のように火を放っ
ているのではないか?


無気力症候群・現実逃避は、なんらかの原因で欲望が減退し、または欲望をあきらめ、または紋切り型の社会的価値に従属してしまった結果ではないか?科学がもたらす虚無もいい訳になる。そもそも人類という生命体は生きることにすら理由がいるほど弱くなってしまったのか?


砂漠を一人でさまよって人に出会ったとき、そこには嬉しさがあるようだ。都会の雑踏で他人に会っても興味もないが、物理的困難な状況の中では、他人という存在がありがたく思える。いるだけで嬉しい。旅先で出会った仲間と強い連帯感をもてるのは、こういう原因であろうか。それは根源的な生命や喜びの発見であろうか。


われわれ先進国の人間は、あまりにも社会とシステムという機械に閉じ込められ、それを当然視しすぎているのではないか。そして気づかぬまま強迫観念の中で生きているのではないか。


そして、自殺者減少・うつ病減少のための対策というのは、国家・社会・文化の改造というくらい困難な巨大な課題ではないか。そして選択の問題になる。経済の発展を重視しないとか。そういうことができるのか?


宗教家や個人が発起して自殺対策に取り組むのは否定できないけれども、本質は解決できないのではないか。つまり先進国の中で高い自殺率だからこそ、例えば日本製品は優秀だという形が続くのではないか?「明日やればいい」という日本職業倫理からは許しがたいラテン系になれないからこういう自殺率なのだと。