番頭が主人を差し置いて国を乗っ取る。
それが日本の千年にもわたる伝統である。
---------------------------------------
日本の君主である天皇は、補佐役である関白に実権を奪われる。王朝政治は、親政派と実権派の政治闘争であった。しかし、引退した天皇が「ゆがんだ親政」である院政を行うようになると、さらに統治は弛緩していった。
源氏将軍は幕府を開いて武家の棟梁になったが、番頭格の北条家に実権を奪われ飾り物になる。
足利将軍も、細川や大内などの有力守護大名に実権を奪われ都落ちした。
戦国時代には、守護大名は地域番頭である「守護代」に実権を奪われる。武田・上杉・織田・徳川は「守護代」の末裔である。
徳川将軍は、将軍親政と家老政治がいれかわりしていた。諸藩でも同様であった。
明治維新では、「王政復古」当初は「天皇親政」がスローガンであったが補佐役の大臣衆に実権を奪われた。建前として裁可権が残った。
---------------------------------------
しかし経済大国になってみると、国は「官僚という番頭」に支配され、「主人である全国民」はないがしろにされている。企業では株主がないがしろにされ、番頭であるサラリーマン社長が実権を握っている。労働組合は執行部に握られている。
*日本興亜の株主総会では、株主質問に嫌気がさしたのか社長が「はいはい、分かりました」と応答(産経ニュース )。この株主は創業者の元会長だからいろいろあるんだろうが、株主であることに間違いはない。もはや社長が番頭ということすら忘れてしまうくらいである。
戦後はさらに番頭だらけ
社会の番頭たちの意向を受けた政治結社が政党というわけだ。
個人が富貴をきわめ資本家として振舞うことにこの国では制約があり、個人は欧米に比べるとカネをもってない。カネをもっているのは法人だ。だから企業献金はやまない。それは腐敗した巨大労組も似たようなものだ。組合費をなかば強制的に徴収しておきながら自分たちのために使う。そこにはみんなのカネを管財人が濫用するという共通の枠組みがみえる。
番頭国家は、小親分衆の意向を反映する意味で民主的ですらある。また番頭国家では専制の個人独裁者は生まれない。これが日本的な民主主義であろう。日本人は歴史的にも個人独裁を嫌う。だからこそ歴史的に番頭支配が展開されてきた。だから個人を基礎とする民主主義は幻想に終わるであろう。さまざまな集団こそが決定的な政治の力だからだ。そしてそこには世話役・まとめ役となる番頭がいる。
しかし、番頭国家では責任所在があいまいになる。建前上は番頭は決定者ではないから。影響を及ぼしながらも無責任。無責任体質では国家の機軸はぶれまくる。いまや国家の金蔵がからっぽなのか埋蔵金さがしに明け暮れる状態。主人である国民には4年に一度の選挙しかない。
番頭たちを一斉にクビにするくらい過激な改革が必要だ。
われわれは勇気をもって決定者(期限付き独裁者)を選ぶ必要がある。それが選挙であるべきだ。誘導するのではなく、客観的な議論のネタをくれるマスコミも必要だ。
---------------------------------------
「番頭国家」という言葉は、松下幸之助が唱えたものだったらしい。それは、世界の主人たるアメリカを立てて、日本が大番頭として振舞う体制である。冷戦時に親米であることは自然なことで、かつ、親米でトクしてきたことは多い。反米のキューバをみれば一目瞭然だ。
しかし、日本はアメリカの番頭にまではなっていない。イギリスやイスラエルやサウジアラビアと比べても、日本はアメリカに影響力をもてない国である。ましてやアメリカが中国をアジアの覇者と認めてすり寄っていくのを見るにつけ、アメリカの番頭になって世界に君臨するという夢は陽炎のようにゆらいていく。