「何もできねえくせに権利・権利などと言うな!」という言葉を聞く。別に不思議でもなく、多くの人が共感できる発言だと思う。
「権利」という言葉はうっとうしいものだ。
「権」は「権力」を思わせ、「利」は「利益」を想像させる。
「わたしには権力と利益があるんだ!」などと無能な人間が言ったら、しばいてやりたいと思うだろう。「お前に権力があるはずないし、主張できる利益もない」と自然に思える。
「権利」という言葉がそこまで下等なものになっているのは残念なことだ。
これは、「文明開化」で西欧から法思想を持ってくる際に誤訳したものだと思う。ちょうど「United States(合州国)」を「合衆国」と誤訳したように。
自由民権運動が盛んになったとき、訳語として「権理」もあったようだ。こちらのほうがまだマシだ。
英語圏では「right」という。これは「正しきこと/正義」という意味もある。
これは「自然法」の考え方が反映されている。「自然法」では法は人為的なものでなく、自然法則のように法文がなくとも存在する理念と把握する。人間は立法や司法を通して、真実の法に近づいたり、それを発見することができるだけで、法を始原的に生み出すことはできないとされる。英米が「判例法主義」なのはこうした自然法思想が支配的だからだ。
つまり「権利」とわれわれが表現しているものは、「人間社会に存在する正義」とも言いなおせる。「自由の権利」は「自由という正しさ」といえる。そう考えれば、「権利」はそう下等なものでもない。
たとえば、刑法が強制わいせつ罪などで「自由の権利」のひとつである「性的自由」を守っている。仕事ができず遅刻したりして会社に迷惑をかけている女性がいたとして、「お前なんかに権利などない!」との発言に疑問は感じる人は少ないだろう。しかし、仕事ができないからといって、わいせつ行為をされても仕方がないと思う人はいないだろう。性的行為の強制などは、「正しきこと」ではない。義務を果たしたかどうかとは関係ない。
ところで欧州では英米と異なって「成文法主義」であり、「国家があるから権利がある」すなわち「権利」を国民に与えられた資格・特権とする考え方がある。これは日本人の感覚に近いかもしれない。なおドイツでは「法=客観的正義」とし「権利=主観的正義」とし、正義という意味合いは消えてないようだ。
また英米では、「rignt」とは別に、義務に対応する「claim(請求権)」や遺言などの一方的権利(権能)である「power」という具合に区別があるようだ。
とにかく日本では「権利」は評判が悪い。また○○権・○○権と権利が増発されてきた。国法についてもエリートや象牙の塔に丸投げしてきた。そうして国民の中で社会的公正さ、正義という意味が死んでしまったのは残念なことだ。また「人権」も一部特定集団の武器のようになってしまい、堕落した。これで欧米の真似をして「法の支配」を叫んでも虚しい。「公理」などの言葉に直せないだろうか。
慣例を捨て去り、もう一回、国と公権力と人間を見直し、この日本をやり直せたらスッキリするんだが。