「私は、なるべくカモフラージュをやめる」
ミュージカルシンガーとして、表現の道を歩む娘は、
今そう思っています。
発達障害(ASD)という自身の特性を、
もともと隠すつもりはありませんでした。 ですが、どうしても「和を持って尊し」の日本では、
周りに合わせてしまうのが常でした。
これまでの記事で、
「予定変更への困難」や「”ちょっと”が伝わらない世界」
についてお話ししてきました。
それらの困難を抱えながら、
コミュニケーション力が問われる世界で生きていく。
できるフリをして生きていくのは周りにも、
自分にも不誠実なのかもしれません。
われわれ親子は、
彼女たちがASDであることをオープンにしてきました。
が、オープンにしても、
そこに「理解」がないと意味がなくなってしまいます。
「私はこういう特性があるASDです、
だから、こういうところが、わかりません、
よろしくお願いします」
というような自分の取説を持ち、
初対面の方にはそれを渡します。
でも、、
誰かに笑われたりすると、、
彼女のカモフラージュがはじまります。
そうなると悪循環、、、
逆に 「え?そうは見えない、全然普通!」
なんて誤解されてしまう。
すると本人も、それに値する人にならなければ、、、と
さらにカモフラージュする、という堂々巡り。
じゃあ、どうしたらいいんだ?
今日は「障害をオープンにするメリットとデメリット」
について、具体的にお話ししたいと思います。
■「オープン戦略」が招く、新たなジレンマ
私たちはこれまで、
娘の障害を「オープンにする」戦略を選んできました。
その方が、周囲の理解を得やすく、
彼女自身もすこしは楽に生きられると考えたからです。
オープンにすることのメリットと、
「隠す(クローズにする)」ことのメリット。
その両方を見ていきたいと思います。
【オープンにすることのメリット】
-
「具体的な配慮」を求める権利が生まれる:
「取説」を渡すことで、
「曖昧な指示は苦手です」
「大きな音はパニックになります」と、
求める配慮を具体的に伝える「正当な理由」ができます。
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仲間と繋がれる可能性:
ウィーンで、娘が首から下げていたストラップに気づいた
レストランのスタッフの女性が
「私もそうなの」と、
笑顔で声をかけてくれたことがありました。
相手もオープンでなければ成立しませんが、
告白することで、
世界にいる仲間と繋がれる可能性が生まれます。
【クローズにすることのメリット】
-
「普通に見える」ことによる円滑な人間関係:
初対面の場など、あえてカモフラージュし
「普通」でいることで、相手に余計な警戒心を与えず、
スムーズな関係を築ける場面は確かにあります。
第一印象で「面倒な人」と思われないための、
処世術とも言えます。悲しいけど。。
-
「できる人」として扱われ、挑戦の機会を得られる:
「障害があるから」と最初から配慮されすぎると、
挑戦する機会そのものを失うことがあります。
あえてクローズにすることで、他の人と同じ土俵に立ち、
自分の限界を試すチャンスを得られます。
-
ありたい自分でいるための自己防衛:
カモフラージュは、自分を偽る行為であると同時に、
「こうありたい自分」を保つための
自己防衛でもあるのかもしれません。
■「カモフラージュという「見えないギプス」
娘が今、
「なるべくカモフラージュをやめる」と
決意しているのは、なぜか。
それは、カモフラージュがもたらす代償が、
あまりにも大きいからです。
ちょっと想像してみてください。
あなたは骨折しています。
でも、それはズボンの外からは見えません。
電車の中で、あなたは痛みをこらえ、
平気な顔で立ち続けています。
周りは誰も、あなたが激痛に耐えているとは気づきません。
電車を降りた後、その足はどうなっているでしょうか。
痛みや疲れは、想像を絶するものでしょう。
カモフラージュとは、まさにこの「見えないギプス」です。
周りに合わせるために「平気なフリ」を続けることで、
彼女の心と体は、
私たちの想像を絶するほどのエネルギーを消耗し、
疲弊しきってしまうのです。
彼女たちの戦い、、、
それは、「障害を告白するか否か」ではなく、
告白した上で、いかに本当の自分を理解してもらうか
です。
親として、その戦いをどうサポートできるのか。 ただ見守るだけでなく、社会の「普通って、何?」という思い込みそのものに、このブログを通して問いかけていく必要が
あるのかもしれません。
(3日間にわたり、ハートネットTVに関連する
投稿をお読みいただき、
本当にありがとうございました。)