曲を作りながら弾きながらどんどんピアノを発信していくのが私の一つの形です。

曲を作るというのは、私にとってとても自然なことで、人になかなか説明がしにくいのでありますが、っm

 

友達と話をするときに、こう言ったら、こう返そう、こう言われたら、こう話をしよう、、なんてことは思わずに話をすると思います。それと同じ感じ、、、頭と手がそんな感じで動いています。

 

楽譜には盛り沢山の情報があり、研究をするとその時の作曲家の思いや、歴史までわかってくる、その時のストーリーがあると楽譜と連動していて、面白いこともあります。。。だからこそ、音大のピアノ科で培ったことは今でも大いに役立っていますし、楽譜の文化を否定するつもりは全くありません。

 

始めて会ったもの同士が一緒に演奏ができるのも、楽譜あればこそ。。。なのでその功績は大きいのですが、それがちょっと耳の文化を行きすぎている気がしています。音楽は目の文化ではなく、あくまでも耳の分化であるということを、耳の代弁者として言いたいという気持ちがあります。

 

思うがまま、絵筆を動かすのと同じように、思うがまま指を動かしてピアノと音を紡ぐにはそれなりの準備が必要。それがきっと私の3歳から25歳ぐらいまでのクラシックの精進、同時期にやっていた洋楽のコピー、少し後にやってくるジャズの猛特訓があり、その上でそこから取捨選択を瞬時に行なってつらつらと、ヘラヘラと紡いでいるのがきっと即興です。

 

いつの間にかインスピレーションがメロディやアレンジに変換されていく、、なのでいつまででも弾いていられます。女性のおしゃべりと同じですね。そう、言葉を覚えるのと同じです。少しずつ難しい単語を言えるようになり、使えるようになり、難解な言い回しができるようになり、同じことを言うのでも優しくも、難しくも言える。クラシックなんて、、、と思っていた頃に、それでもある意味我慢して?やってきたことは、今大いに役に立っています。

 

教会に神様はいないといいますが、楽譜の中に音楽はない、楽譜は一つの表し方で、私は心にあると思っています。