大坂城特別公開 | ハタ坊のブログ

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忙しい日々が終わり

やっと、日常が帰って参りました 





2週間前の出来事です 



大坂城にいってきました   
 
2012-1-2大阪城.jpg 
最近、良く行くので写真撮り忘れました 

ので・・・平成24年1月2日の大阪城です





3連休、最後の日ということで

大坂城公園では、色んな催し物が・・・

小学生が、ソーラン節の練習をしてたり

仮装(ドラゴンボールやトトロ他)して駅伝してたり

を横目に、シアターBRAVAを遠くに見 

弱虫ペダルを想い・・・テンションUP 





“ 青屋門 ” をくぐると・・・

 
鷹狩りジャー 



写真をお願いして撮らせて貰ったんだけど

すこし・・・こわかった 





で、ずっ~と気になってた “ 人面石 ” を探しに、

いつもと違う方向に・・・石垣をジィーツと見ながら、

200メートル程行っても見付からず

今日の第一の目的だったので

その先には、何故か無いように思ったので

あきらめる事なく、何度か往復し・・・





み・つ・け・ま・し・た 

人面石みっけ☆.jpg 
分からないですよね 



私としては、この写真でも十分わかるんです  

影の部分になってますけど、中央左よりの

上部分に大きな石のある2段したの右の

黒い石・・・分かりますか 



〔るるぶ〕より・・・こちらも見にくいですけど
人面石.jpg 

本丸の北東の内堀の石垣にある怪しげな黒い石。

幕末の頃までは、くっきり顔の形があったそうです。

魔除けの意味があると言われてます。





そうそう、人面石は青屋門から50メートルも

行かないところにありました 



すこし戻り “ 極楽橋 ” を渡り内堀の中へ・・・





そして、今回の最大の目的

史跡・重要文化財指定60周年記念

重要文化財「千貫櫓・多門櫓・金蔵」特別公開

〔 10月12日(土)~14日(月:祭日) 〕



天守閣の前にある 『 金蔵 』
金蔵.jpg 
徳川時代大坂城の古建造物で、幕府の金銀(御用金)保管庫。



「きんぞう」 「かねぐら」 「かなぐら」 と色々な読み方をしますが

江戸時代には通常 「御金蔵:ごきんぞう」 と呼ばれてたらしい。



江戸幕府の金蔵は、江戸城と大坂城に置かれ

二条城・駿府j城や甲府にも小規模なものがあったが

幕府の金蔵として現存するのは、この1棟のみ  



この金蔵ができたのは三代目家光の時代

明治維新の大阪城大火に際しても焼け残りました  



内部は2室に区切られていて

奥の部屋への入り口は戸を3重にしてあり

中ではボランティアのおじさんが説明されてました 



床板を一部取り除いて床下を

見ることが出来たのですが

石が敷き詰められていて

防火や防犯の対策がされているのに

防湿のため通気口があって 

「 あそこから、人が入れるやん 」

って、思ってると鉄格子がはめ込まれていて

非常に頑丈で厳重なつくりとなってるそうです 



内部撮影はOKだったのですが

何分に暗くて・・・

唯一、撮れた写真です 


        
      ・・・ 窓の鉄格子 ・・・        
 重要文化財『金蔵』特別公開/窓の鉄格子.jpg 



金蔵には常に22トンの貨幣が、現在の額で

500~800億円ぐらいのお金が納まっていたそうです   





・・・ 金蔵にまつわるエピソード ・・・



【 1 】 御金蔵破り事件
 
金蔵の御用金が紛失し、これが表ざたに
なって関係者が処罰された事件は
1730年と1740年の2度起こりました。

1740年の犯人は、本丸を守護していた
旗本集団の一人、窪田伊織の従者で
25歳になる梶助だったことがわかった。

梶助は5月15日の朝、本丸に主人が入るための
鑑札をもらいに行った時、すきをねらって本丸に
忍び込み、御殿を通って金蔵に至り、釘を使って
三重扉の錠をひねり切って、中にあった4,000両を
盗み出しました。

これだけの金を一度に運ぶことは出来ず、その内
400両ずつを二度に分けて持ち帰り、残りは御殿の
床下などに隠していました。

幕府が秘密裡ながら必死に犯人を捜していたところ
最近急に金遣いが荒くなった人物は誰かという捜査
から梶助が割り出され、白状した。

のちにこの事件は伝説化して内容も変わり、梶助は
黄金水井戸に太閤秀吉が沈めた黄金をねらった盗賊
だったと伝えられるようになったという事です。




【 2 】 幕府御用金はどこへ

明治維新の時のお話です。

明治元年1月、鳥羽・伏見の戦いによって旧幕府軍は
新政府軍に敗れ、大坂城にいた元将軍徳川慶喜は
脱出して海路江戸に戻ってしまいました。

幕府の海軍副総裁だった榎本武揚はそのとき指示を
出して金蔵から御用金18万両を運び出させて軍艦に
積み込み、江戸へと運びました。

この金銀はさらに蝦夷地(北海道)に運び、幕府の
再起をはかる資金として使われる予定でしたが、
嵐のため途中で船は沈没。

大坂城金蔵にあった金銀は今も海に
沈んでいるといわれています。
その場所は一体どこなのか、それとも
陸上のどこかに埋蔵されているのか、
あるいは使われてしまって存在しないのか、
真相は今もって謎のままです。






金蔵を出たところに・・・
小判.jpg 
小判 















本日は、ここまで・・・

『 大手口多門櫓 』 と 『 千貫櫓 』

のお話は後日お届けします