私が初めて金沢を訪ねたのは、2000年の12月。

 

 金沢の成人映画館、駅前シネマ館主の藤岡紫浪さんが発行する

駅前シネマニュースに、「映画に逢いにゆく」というエッセイの

連載を、その年の4月から始めたので、挨拶に行ったのだ。

 

 

 雪の降る、寒いクリスマスの日で、昭和感溢れる駅前シネマの

ロビーのストーブに当たっていると、初対面の藤岡さんが現われた。

舌鋒鋭い文章とは真逆の、プァーッと春風が吹きつけてくるような

雰囲気に驚いた。

 

 開口一番、ニヤッと笑って、「原稿、急いでまとめたでしょ。

最後の10行、書き直さんかね」うわ~っ、見抜かれた。

締切に間に合わせようと、東京を発つ前に、急いで送ったのだ。

かくして、金沢の夜、連れが眠る宿で、雪を見ながら原稿を

書いたのだった。

 



 その妥協しない姿勢、気に入った。一地方成人映画館から

文化を発信する気概のある藤岡さんを、金沢のカツシン、と

私は呼んだ。駅前シネマニュースは、藤岡さんをはじめ、

一癖も二癖もある執筆陣が集い、世間の良識や映画界を撃つ

弾丸だった。

 

 「何を書いても構わないので、意見を開陳する場にしてみませんか」

という最初の言葉通り、本当に何の制限も無く書かせてもらえる

夢のコラムで、大手出版社のように、政治や性に触れるだけで削除の

憂き目に遭うこともなく、私は作家性全開で書きまくった。

 

 

 映画を通して社会を見つめ、己を見つめ、毎回、ギリギリまで自分を

追い込んで書いたものを提出し、少しずつ己の視点、切り口を確立して

行った。遅筆の私を、藤岡さんは怒ることなく、励ましてくれた。

「待った甲斐がありました」という言葉が、どんなにうれしかったか。

駅前シネマニュースは、ライターとしての私の青春だった。

 

 

 本名の伊藤裕子で連載した。

 

 

 2009年に、駅前シネマニュースが休刊になった時は淋しかったが、

100回の連載で鍛えた己の視点と切り口で歌を作り、2010年、

私はシンガーソングライターになった。

 

 

 2014年、ファーストフルアルバム「家でテレビを観ているよりも」を

出した時、誰もやったことのないレコ発ライブにしたくて、初脚本と

初芝居に挑戦。浅川マキが旅公演の千秋楽を前に亡くなる前夜、

幼馴染の亡霊が現われ、二人は生前、交わしたことのない深い対話を

交わす、「ちょっと長いお別れ」という二人芝居を書いた。

 

 

 

 マキを演じるにあたって、彼女の故郷、石川県の美川町を訪ね、

出来れば昔の彼女を知る人に会いたい、と藤岡さんに相談したところ、

浅川マキの金沢公演を企画したことのある美川の辻川浩己さんを紹介

してくれて、そのつてで、浅川マキの妹の道ユミ子さんや幼馴染の

千恵子さんに会い、一緒に美川のおかえり祭りに行く仲になった。

 

 



 2020年1月26日には、マキさんと親しかった平賀正樹さんの店、

金沢のもっきりやで、マキさんのプロデューサーだった寺本幸司さん

企画の「浅川マキ・バースディ・トリビュート・ライブ」に出演し、

マキさんの盟友ギタリスト萩原信義さん、池田洋一郎さん、そして、

妹のユミ子さんとの共演を果たした。

 

 

 

 

 

 

 

 藤岡さんも駅前シネマから駆けつけ、既に満席の店内で、

2時間40分立って観てくれた。ありがたく、うれしかった。

 

 

その2ヶ月後の3月31日、駅前シネマは62年の歴史に幕を閉じ、

私は東京から駆けつけ、最後の勇姿を見届けた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



 思えば、金沢とは24年のつきあいになる。今、バンド、

寸愚良を一緒に組んでいる谷口カズヒトさんも、金沢の人だ。

 

 

 その金沢が、元日の地震で被災し、心配で堪らない。

震源地の能登半島は、もっと大変なことになっている。

この寒空に、家を失った人、停電や断水に苦しんでいる人、

家族や親しい人を亡くした人、胸が潰れる思いだ。

 

 どうかこれ以上、犠牲者が出ませんように。

一日も早く、安心して暮らせるようになりますように。

祈ってやまない。今は、心ばかりの寄付をすることしか

出来ないけど、会いに行きたい。