60年代の台北高校の昼間部の受験に失敗した小四(シャオスー)は夜間部の通う中、不良グループのボスの彼女、小明(シャオミン)と出会う。彼女に恋心を抱く小四は不良グループ同士の抗争に巻き込まれていく…
故エドワード・ヤン監督の代表作。4時間弱という長尺な青春物語がラストまで惹きつける傑作。是非とも劇場で見るべき作品。光と影を演出する本編では暗闇の闘争がおそらくスクリーンでないと判別できないだろう、それは暴力という残酷さではなく無軌道という狂気がヒシと伝わってくる。どのシーンも名場面として紡ぎあげられる。超おススメ。
常々映画を観て我思う、何故作品によって退屈するorしないがあるのだろうか。それが製作陣の手腕の違いといえば身も蓋もないのだが、どこかに理由が潜んでいるに違いなく、それが一つの要因であればなんだココさえ押さえていれば大丈夫、こっちのものだと高を括って製作を進める事ができよう。ところがそんな万能薬なんてものが存在する事はない、しかし数ある秘訣の一つとして「登場人物のベクトル」が考えられるのではなかろうか。
なんだ、そのベクトルってのは?"進むべき方向"って言ってもピンとこないかもしれない、この作品は群像劇として数多くの若者が登場するのだが、皆が現在存在する境遇から外の世界に出たがっている。彼らが鬱屈する閉鎖された空間として"学校"が描かれており、発散する行動としてグループ間による"抗争"が勃発する。とにかく彼らは外へとベクトルを働き続けている。ん、なんだよ、それだけでいいのか、イエスこれだけでまったく違うのだ。ならば敢えて問う。学生生活の場という囲われた世界に定住していて、そこに築かれる対人関係を主としてなおかつ素敵な彼氏がこちらを振り向いてくれたらサイコーハッピーに浸ってしまう某少女漫画チックな物語の何処が面白いんだ、とどのつまり教室の中でしかベクトルが働いてないじゃないか、若者がそんな小さな世界に安住していいのか、それも永遠に続かない期間限定の世界じゃないか、人生は社会へと勇んで航海してからの時間の方が長いのは明白、反抗心とまでは言わぬ、向上心がなければ楽しくないじゃないか、と老婆心として言いたくなる。
井筒和幸監督作品「パッチギ」然り彼らは民族差別を背景にベクトルは常に外へと突き進む。思慮は浅はかでも逞しく行動する姿はあまりに眩しく美しい。それが共感へとつながりカタルシスが生まれてくる。結論。登場する若者達の果てなき外へと向かうベクトル、そこに共鳴する事で物語は退屈する事なく展開していく。
某作品のように一週間しか記憶できない女子高生を見ても私は共感する事はなく病院へ行こうと進言するしかない。それはあくまで作品の否定ではなく結果としてヒットすれば興行として成功である、しかし「牯嶺街(クーリンチェ)少年殺人事件」という名作を劇場で観て欲しいという切なる願いがここにある。これほどまで光と影にこだわったエドワード・ヤン監督以下製作陣の功績は私達の記憶として心刻まれることであり未来永劫色褪せることはない。断言。
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