ー第九夜 それでも、カウンターへー
手術を終え、病院の匂いがようやく身体から抜けはじめた頃、私は久しぶりに並木通りを歩いた。
足取りは、以前よりも慎重だった。
夜風が、思いのほか冷たく感じられた。
だが、扉の前に立ったとき、不思議と迷いはなかった。
カウンターの端から二つ目。
いつもの席は、そこにあった。
「おかえりなさい。」
その一言が、胸の奥に静かに落ちた。
それから二年間、
私はソーダ水だけを注文した。
かつてブルーラベルを愛した客が、
ただの炭酸水をゆっくり飲む。
店の売り上げには、ほとんど貢献しない客だっただろう。
それでもスタッフは、
何ひとつ変わらぬ距離で迎えてくれた。
グラスの置き方も、
氷の音も、
言葉の選び方も、
何も変わらなかった。
病気の話を、私は少しずつした。
余命半年と言われたこと。
十時間の手術。
自業自得と思いかけた夜。
マスターは多くを語らない。
ただ、うなずき、
「そうでしたか」と、静かに言った。
銀座の夜は、騒がない。
必要以上に励まさない。
ただ、そこにいる。
ソーダ水の泡が、グラスの底からゆっくりと立ち上る。
かつての琥珀色とは違う透明な光。
だが、その揺らぎは同じだった。
売り上げにつながらない客を、
変わらぬ席で迎えるということ。
それは、この街の品格なのかもしれない。
夜が更ける。
私はまだ、生きている。
酒は遠くなった。
だが、銀座は遠くならなかった。
それでも、カウンターへ。
その一歩を踏み出せたことが、
何よりの回復だった。
《最終章につづく》