インカレサークル

それはインターカレッジサークルの略で

他大学の学生との「交流」を目的とした

サークルのことを指します。

 

しかしこの「交流」というのは、

ただ単に交友関係を広げる

という意味合いではありません。

盛りのついた年頃の若者たちが

男女の関係を求めるという意味の

「交流」なのです。

 

よって、名目は二の次で、

ラケットも握ったことの無い学生が

テニスサークルに入り、

オフサイドのルールも知らない学生が

サッカーサークルに入るのです。

とにかく、出会えればそれでいい・・・

の精神で、思い思いの野望を抱き、

世の大学生たちは

インカレサークルの門をたたくのが

当時のスタンダードでした。

 

 

無趣味無気力ニート予備軍大学生だった私も

そんな素敵なサークル活動を夢見て

インカレサッカーサークルの門をたたくのでした。

 

腐っても幼少期からずっとサッカーをやっていた私は

 

(サッカーの試合でかっこいいところを見せて

 人生で3回あるというモテキの1回目を

 満を持して迎えよう・・・)

 

などと、期待に胸を膨らませながら

新入生歓迎会、

所謂、新勧へ向かうのでした

 

到着すると、男女40人ぐらいが

集まっており、互いに自己紹介をしながら

楽しいひと時を過ごしていました。

 

これまでの人生、母親以外の女性と

ほとんど会話したことの無かった私は

 

(女の子と話すのたのしーーー!)

 

と舞い上がっていました。

 

すると、男の先輩に

ちょっとこち来てー

という雰囲気で手をこまねかれ、

人だかりが少ないところに

連れていかれました。

 

「君、女の子狙いできてない???

 うち、そういうのじゃないから気を付けてね。」

 

・・・?

 

ただ普通に楽しくしていただけなのに、

まさかそんな事を言われるとは

思っていませんでした。

 

酔いもテンションも一気に覚め、

一度冷静になり、少し離れたところから

参加している面々を観察していると

あることに気づきました。

 

(このサークルの男たちは

 俗にいうキョロ充だったのだ・・・)

 

キョロ充とは、

生活が充実している”リア充”に憧れを抱き、

その人たちのグループに所属して真似をしたり、

本当はそうでないのに

リア充を気取ったりしている人間の事です。

 

女性に話しかけられず、モジモジしている者、

 

空気を読まず、寒い話を大声で話す者、

 

大学デビューが隠しきれていない風貌・・・
 

どうにか、女性と交流を持とうと

名目だけのサッカーサークルで活動するも

イマイチブレイクしきれない集団。

 

それがこのインカレサークルの実態でした。

 

 

 

それから、何度か飲み会には

参加したことがありましたが、

 

・お台場でみんなで鬼ごっこ!

・ディズニーランドで宝探し!

・泥団子合戦!

 

などという、気色の悪いノリには

なかなかついていけず、

私は次第に幽霊部員となっていました。

 

大学生入学時は新しい環境で

自分の何かが変わると思っていましたが、

リア充になるどころか、

キョロ充にもなることができませんした。

 

しかし、そんな気味の悪い空間に

身を捧げるぐらいなら、

おうちでクッキーを食べながら

漫画を読んでいる方が自分の性には

合っているな・・・とも思いました。

 

 

それから数か月経ち、

私は、大学二年生になっていました。

ほとんどサークルには

顔をだしていませんでしたが、

一応籍は残っていたようです。

 

「新入生の歓迎会を兼ねた

 フットサル大会をやるので、

 是非参加してください!」

 

という案内が自分の元にも届き、

心底暇を持て余していたこともあって、

久しぶりに顔を出してみることにしました。

 

 

そして当日、相も変わらず、

寒いノリが繰り広げられている空間に

辟易としながらも、顔見知りの女の子たちが、

久しぶりー!と声をかけてくれることには

悪い気はしませんでした。

 

周りを見ると、知らない顔の男が数人いました。

聞くと、自分が活動に参加していなかった間に、

新規で参加したメンバーのようでした。

 

その中の一人に、妙に場を仕切りたがる

鬱陶しい奴がいました。

 

そして、私が女の子たちと

話しているのを見て、

良く思わなかったのか、

 

「君、2年生だよね?

 もう自分だけが楽しむのはやめて、

 周りにも気を配ろうよ!」

 

みたいなことを抜かしてきました。

 

(相変わらず、気味の悪い奴らが

 集まっているんだな・・・)

 

と、思いつつ

ニコッと笑って、その場は流しました。

 

それから、すぐに

フットサルの試合が始まりました。

 

私は一応経験者ということで

気を遣いながら、女の子に

ゆるーいパスなどをしつつ

ちょうどいい感じでプレーしていました。

 

が、流石に

 

(くそつまんねえええええええ)

 

と、思って

一度だけ、マジシュートを

放ってしまいました。


すると・・・

 

「キミ!危ないじゃないか!

 経験者なら気を使ってくれよ!」

 

さっきの仕切りたがり男が

私のところに駆け寄ってきて

大声を上げてきました。

 

その場は

 

『ごめんごめん!』

 

と、謝りましたが、時間が経つにつれ

どんどんと腹が立ってきました。

 

そして、私の我慢は

フルゲージを迎え、

その後の試合は、大人げなく、

怒りのマジプレーの連続をかましていました。

 

 

そして私は、仕切り男に

 

『二度と俺に指図するんじゃねえ!』

 

と吐き捨て、

飲み会にも参加せず帰宅しました。

 

 

その夜、仕切りたがり男から

1通のメールが入っていました。

 

「今日みんなで話し合ったけど、

 キミにはもうサークルに参加してほしくない」

 

別にそのサークルには

何の思い入れもなかったのですが、

いざ、追放宣告を受けると

小学生の時に放送していた

「サバイバー」というテレビ番組を

思い出し、精神的に来るものがありました。

※サバイバーでは

 定期的に開かれる「追放会議」で

 多数決でゲームの脱落者を決める

 というルールがありました。

 

『夜道には気をつけろよ』

 

と、メールの文面に書いたのですが、

送信ボタンは押さずに

連絡先ごとそのメールを削除しました。

 

 

・・・・・・

 

 

この話を書くにあたって、

久しぶりに、そのサークルのHPに

アクセスしてみました。

 

相変わらず、気色の悪い

イベントの報告が綴られており、

胸糞が悪くなりました。

 

 

あの時は自分も大人げなかった・・・

と思うと同時に、

 

私はいつものように

漫画を片手にクッキーを食べながら

 

(どうかこいつらが

 全員幸せになれませんように)

 

と、願っているのでした。

 

 

 

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~前回までのあらすじ~

ただ毎日を虚無的にこなし

暗く憂鬱な高校時代を

過ごしていた私は、ある日、

日ごろから気に食わなかった

ゲイの同級生に喧嘩を仕掛け

全治二か月の怪我を負わせてしまう

自分の停学処分だけでなく、

サッカー部の連帯責任として

選手権出場を棄権することが検討される中

私は停学初日を迎えるのであった

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私の停学は

学校内謹慎と自宅謹慎に分かれていました。

 

学校内謹慎とは、

遅い時間に登校することで

ほかの生徒の目を避け、

隔離された部屋で一日を過ごし、

皆が帰る少し前の時間に

一足早く下校する謹慎の事です。

 

私の学校には、

部活の合宿用の小さな宿舎があり、

その中の6畳ほどの部屋に

隔離されていました。

 

ローテーブルに座布団があるだけの

殺風景な部屋で、正座をし、

ひたすら反省文を書き続ける日々を

過ごしていました。

 

私の記憶を辿る限り

人生で一番時間が長く感じた

日々だったでしょう。

 

1時間に1回ほど、不定期に巡回に来る

教師の足音を聞いて急いで姿勢を正す姿は

ほぼ囚人のそれでした。

 

 

時折、外を見ると、女子生徒が

体育でテニスをしていることがありました。

娯楽がなさ過ぎて、これを見ることだけが

私の唯一の楽しみでした。

 

以前、少年院の子供たちが

現場見学に来た女子大生を見て

オナニーをしてしまうという話を

どこかで聞いたとき、

 

(心底気味が悪いな・・・)

 

と、思っていましたが

その気持ちがよく分かったのを覚えています。

暇すぎる時間は、人の精神を蝕むのです。

 

テニスコート側から見ると、

カーテンとカーテンの隙間から

自分たちを覗く、私の姿は

不審者か幽霊のどちらかでしかありません。

 

しかし私にとって、そんなことは

もうどうでもいいのでした。

その時はとにかく時間が

早く過ぎることを願っていました。

 

 

謹慎期間中

私と授業で関わりのあった教師達が

交代で面談に来ました。

 

事務的に課題の説明をする人

 

他人行儀に「がんばれ」と励ます人

 

嫌味を言って帰る人

 

どの言葉にも

何も感じなくなっていました。

 

ただ唯一覚えているのは

学年主任に

 

「この話は、他言無用だぞ

 自分の心の中だけで解決しろ

 彼女にも話すなよ・・・」

 

と、言われたことです。

 

彼女・・・?

 

当時、彼女なんているはずのなかった私は、

虚しくなりながら、

 

『はい・・・』

 

とだけ答えました。

なぜかこれだけ妙に心に残っています。

 

 

その後、3週間分の課題を

1週間で終わらせた私は、

残りの自宅謹慎を終え、

模範囚のごとく2週間で停学解除となり、

学校に戻ってきました。

 

父の言葉が効いたのか定かではありませんが、

選手権辞退の話も、教師陣の多数決で

棄却されることになり、退学せずにすみました。

 

サッカー部をやめることも考えましたが、

ここでやめたら、一生負い目を感じて

生きることになると思い、

意地でも辞めないことを決意し、

卒業まで続けることができました。

今思えばその選択は正しかったと思います。

 

 

先日、実家に帰った際、

当時の反省文を見つけました。

そこにはこう綴られていました。

 

「暴力の代償は信頼だ

 信頼を失うのは簡単だった。」

 

(我ながら、

 それらしい言葉をよく並べていたな)

 

と、思いましたが、

良く考えると、

そもそも私は信頼されるような

人間じゃなかったので、

それは間違いだと気づきました。

 

今私が考える

暴力の代償は「痛み」です。

それは、物理的な痛みではなく

心の痛み。

 

これから30歳になろうとしている私が

こんな昔のことで、うじうじ考えている

 

これこそ不健全極まりなく、

今後も節目節目でこれを繰り返すでしょう。

 

心の痛みは消えることがないのです。

 

そしてそれは、

被害を受けたゲイも同じです。

 

 

先日、会社で

「LGBT理解講習」というものに参加しました。

ダイバーシティ社会に伴う、人事制度の変更も

踏まえて、社員の理解力を高める目的でした。

 

彼らがどれだけ、生きにくい世の中で

苦しんでいるのか、それに対し正しく理解し

彼らをどうサポートするのか・・・

※もちろん苦しんでいない人もいると思います。

 

そんな内容でした。

 

講義の最後に、

LGBTの理解者のみ登録できる

「アライ」という団体に参加するか

聞かれました。

 

私は迷わず

 

『はい!』

 

と答え、証明ステッカーを貰いました。

 

そこには、

 

「これを自分の持ち物の

 見えるところに貼ってください」

 

と書かれていました。

 

 

高校時代のゲイ。

 

今はどうしているのでしょうか。

 

彼にとって日本は

生きやすい国になったのでしょうか。

 

いずれにせよ、

私は彼の幸せを願うことしかできません。

 

 

『少しでもあの時の償いになればいいな』

 

 

と、私は自分のPCにステッカーを貼ったのでした。

 

 

暴力の代償 完

 

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~前回までのあらすじ~

ただ毎日を虚無的にこなし

暗く憂鬱な高校時代を

過ごしていた私は、ある日、

日ごろから気に食わなかった

ゲイの同級生に喧嘩を仕掛け

全治二か月の怪我を負わせてしまう

自分の停学処分だけでなく、

サッカー部の連帯責任として

選手権出場を棄権することが検討される中

私は学校をやめて、

すべてから逃げようとしていた

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停学の通達を正式に受け取るため

私と母親は校長室に向かっていました。

 

これが校長室に足を踏み入れる

最初で最後の機会でした。

日当たりが悪く、薄暗い部屋からは

木がカビた臭いが漂っており

気分が一層落ち込んだのを

今でも覚えています。

 

大人たちの冷たい目線に

辟易しながら、校長から停学証を

慎ましく受け取りました。

 

校内での暴力

および

同級生への侮辱行為

(実際にはイジメと判断された)

 

この2点を加味し、

1週間の学校内謹慎と

2週間の自宅謹慎

計3週間の停学を命じられました。

 

渡された書類には、

停学の心得や反省文のひな形

謹慎中の課題、一日の行動履歴記録表が

パンフレットのようにまとまっていました。

 

しかし、肝心の

サッカー部の進退については

触れられていませんでした。

その場で質問することもできず、

この日は胸にもやもやが残ったまま

家路につきました。

 

 

帰り道、

母親が妙に優しかったのを覚えています。

 

「お母さん、今日仕事休むから

 何か食べて帰ろうか。

 そうだ!この前おいしいって言ってた

 近くのパン屋さんに行こう!」

 

私を元気づけようと、

カラ元気を振りまく母を見て

また胸が苦しくなるのでした。

 

その日食べたカレーパンの味は

いつもより味が濃い気がしました。

 

 

夜になり、明日から始まる停学ライフに備え

課題を見直していました。

 

ひたすら教科書を写経のように書き移す、

これぞ罰!というような課題が多く

先が思いやられていると

 

 

ピンポーン!

 

 

誰かが家に来たようでした。

 

急に嫌な予感がし、

その予感は見事に的中しました。

 

父親でした。

 

私の父は、私が中学2年生の時

ある出来事を機に家から

いなくなっていました。

 

それからほとんど会うことは

なかったのですが、

母親から今回の事件を聞いて

家に駆け付けたようです。

 

その時、一番会いたくなかった人でした。

 

昔のように殴られると思い

 

身体をこわばらせて、身構えていると

 

・・・・・・

 

「ごめんな・・・こんなことになって・・・」

 

と、半泣きで謝っていました・・・

 

父親も母親と同じく、

自分たちのせいで、息子が

おかしくなってしまったと

思ったのでしょうか・・・

 

母親が家に泊まることは

許さなかったので

 

少し話した後、

父親は帰っていきました。

 

 

当時、父親がどこに住んでいたのか

全く知りませんでしたが、

最近になってあの日、

香川県から来たということを知りました。

 

そして父は次の日に、

校長のところへ行き、

 

「自分の息子が退学することになったら

 次は、法廷で会うことになる」

 

と、殴り込みにいったようです。

 

先日初めて、父親からこの話を聞かされ、

当時、悲劇の主人公を演じていた自分が

とても恥ずかしくなりました。

 

 

とはいえ、そんな事とはつゆ知らずの

高校時代の私は、学校内謹慎初日を迎え、

1限目が既に始まっている少し遅い時間に、

校門に到着するのでした。

 

続く