メンズビギ ヒストリー《今西 祐次 編》PART1 | メンズビギ マルイシティ横浜店 GM(ゼネラルマネージャー)の極私的ブログ

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誰にも頼まれてもいないのに、
勝手に始めた“メンズビギ ヒストリー”

前回の“菊池 武夫 編”はなんとか凌いだが、今回の“今西 祐次 編”は難関である。
なぜならこの時代は、
私がメンズビギと距離を置いていたからだ。

1983年…
大学進学を隠れ蓑に
メンズビギに憧れて上京したはずの私は、
一時コム・デ・ギャルソンに寝返った。
その後改心しBIGIグループに入社したものの、メンズビギの担当外だったのだ。

正直この時期は、
目に触れるモノ全てが新鮮で、
一つのモノに執着できなかったのである。
却って、メンズビギを外側から
冷静かつ客観的に見ていた時期でもある。

しかし、今思えばこの時期こそ
“天才デザイナー”今西祐次を擁した
メンズビギの全盛期だったことが分かる。

ちなみに、大人の世代は覚えてるだろうが、
今西時代の最大のヒットアイテムといえば、
誰もが喉から手が出るほど欲しかった、
“スタジャン”ではないだろうか。


ということで今回も、
事実を踏まえながら想像も交えて
話を進めていこうと思う。
もちろん、クダラナイ話はナシで…


【MEN'S BIGI~今西 祐次の時代】

1984年…
(株)メンズビギから(株)ワールドへの
デザイナー菊池武夫氏の電撃移籍は、
ファッション業界内外でも話題騒然となった。当時大学生だった私でも知っていたぐらいだ。

当時のタケ先生の動向は、
その後の業界全体の方向性や戦力図に
影響を与えるほど注目されていたのである。

その注目の中の一つには、
タケ先生が抜けた後のメンズビギは
一体どうなるのか?ということであった。
メンズビギ=菊池武夫のイメージが、
完全に定着していたからだ。

「メンズビギは終わった…」

誰もがそう思ったに違いない。

しかし、大方の予想を裏切り
この窮地を救ったのが、
今回の主役“今西 祐次”である。

一般的にファッションブランドには、
チーフデザイナーやディレクターを中心に、
その下には何人ものアシスタントデザイナーがいる。

メンズビギにはタケ先生という、
創業者かつ絶対的神のような
チーフデザイナーがいた。
しかし、メンズビギが他と違う点は、
アシスタント達の圧倒的なレベルの高さと
層の厚さであった。

事実、タケ先生の門下生達は、
その後自らのブランドを立ち上げたり、
競合メーカーに引き抜かれたりしながら
各々成功していく。
そういう意味でメンズビギの企画部は、
才能の宝庫だったのである。

とりわけ代表的な例では、
加藤和孝(テット・オム)
村岡勝重(yin&yang)
小栗壮介(バルビッシュ)
今西祐次(プラネットプラン)
などが挙げられるが、
その他にも多くの才能を輩出し、
業界でも引っ張りだこだったのだ。

80年代以降のメンズファッション業界では、メンズビギ出身のデザイナーが中心になっていたと言っても過言ではない。

この構図はまるで
私が大好きなブリティッシュロック界の
ファミリーツリー(人脈図)のようだった。

デザイナー今西祐次氏を知ってる方は、
相当のファッション通かもしれない。
カリスマデザイナー菊池武夫という名が、
あまりにも突出していた為、
今西氏の存在は影に隠れていたからである。

しかし、今西氏は
「傷だらけの天使」の時代から、
タケ先生の重要な右腕として
非凡な才能を発揮していたのである。

タケ先生の有能な門下生がそれぞれ独立し、
その後の各々が作った服を見る限り、
最も後継者に相応しかったのは、
やはり今西祐次しかいなかったのだ。

タケ先生の服に感じられる遊び心や、
あらゆるカルチャーを包括した深い表現力。
これらを受け継ぐことは、
並大抵のデザイナーには難しい。

その点、多くの時間をともに過ごし、
お互いを認め合う関係であった二人の間には
目指す世界観や興味の対象に、
あまりズレがなかったように思える。
まさに、師匠と愛弟子の間柄である。

(菊池武夫と今西祐次)
※画像はお借りしました

偉大な師匠の後継者として、
二代目チーフデザイナーに就任した
今西祐次。
タケ先生が築き上げた、
メンズビギのコンセプトを継承しつつも、
徐々にオリジナリティを発揮していく…

                                        ~次回へ続く~


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