「秋鹿郡(あきかのこおり)の条」
(原文)
「所以号秋鹿者 郡家正北 秋鹿日女命坐 故云秋鹿矣」
(あきかとごうすゆえんは こおりけのまさにきた あきかひめのみこといます ゆえにあきかという)
(現代文)
「秋鹿と名づけるゆえんは 郡家の正北に 秋鹿日女命(あきかひめのみこと)が鎮座されています ゆえに秋鹿(あきか)という」
☆
秋鹿日女命(あきかひめのみこと)は『古事記』には登場しない。
☆
恵曇郷(えとものごう)
(原文)
「須作能乎命御子 磐坂日子命 国巡行坐時 至坐此処而詔 此処者 国稚美好有 国形如画鞆哉 吾之宮者 是処造者 故云恵伴(神亀三年改字恵曇)」
(すさのおのみことのみこ いわさかひこのみこと くにめぐりいきますとき ここにいたりましてのりて ここはくにはるかにびこうなりてえとものごとし あがみやはここにつくらんことをのりし ゆえにえともという(神亀三年、字を恵曇と改める))
(現代文)
「スサノオの御子、磐坂日子命(いわさかひこのみこと)が国を巡るとき ここに至りて 『この国は美しく好ましい その形は絵に描いたようである わが宮はここに造るとしよう』とおっしゃった。ゆえに恵伴(えとも)という(神亀三年、字を恵曇と改める)」
☆
スサノオの子、磐坂日子命(いわさかひこのみこと)は『古事記』には登場しない。
☆
多太郷(ただのごう)
(原文)
「須作能乎命之御子 衝杵等乎而留比古命 国巡行坐時 至坐此処詔 吾御心 照明正真成 吾者此処静将坐 詔而静坐 故云多太」
(すさのおのみことのみこ つききとをしるひこのみこと くにめぐりいきますとき ここにいたりましてのりて あがみこころただしくなりしとあきらかにてらし あはここにしずかにいようとす ゆえにただという)
(現代文)
「スサノオの御子、衝杵等乎而留比古命(つききとをしるひこのみこと)が国を巡るとき ここに至りて『私の心は明るく正しくなったここに鎮座しようと思う』とおっしゃった。ゆえに多太(ただ)という」
☆
スサノオの子、衝杵等乎而留比古命(つききとをしるひこのみこと)は『古事記』には登場しない。
☆
大野郷(おおののごう)
(原文)
「和加布都努志能命 御狩為坐時 即郷西山 狩人立給而 追猪佛 北方上之 至阿内谷而 其猪之跡亡失 爾時詔 自然哉 猪之跡亡失詔 故云内野 然今人猶誤 大野号耳」
(わかふつぬしのみこと おんかりしますとき すなわちごうのにしやまにかりびとたてたまう いのさいをおいきたかたかみの くまうちのたににいたりて いのししのあとうせり ときによりて おのずからなりや いのししのあとうせね たまわりしゆえにうちのという しかるにいまのひとなをたまわりておおのとごうすのみ)
(現代文)
「和加布都努志能命(わかふつぬしのみこと)が狩りをされたときに、郷の西山に狩人を立てて、猪を追って北の方に上がっていったが、阿内谷(くまうちのたに)に至ったとき、その猪の足跡がなくなってしまった。そのときおっしゃるには、『自然と猪の足跡が消えてしまった』とおっしゃられた。ゆえに内野という。しかし、今の人は誤って大野と呼んでいるのです。
☆
和加布都努志能命(わかふつぬしのみこと)はイザナギがカグツチ(火の神)を斬ったとき、その飛び散った血から生まれたイワツツノオの子です(フツヌシの神)。『古事記』の「天孫降臨」の段でタケミカヅチとともに各地を巡った刀剣の神(別名タケフツ・トヨフツ)で、フツヌシの神は石上神宮(いそのかみじんぐう)、香取神宮の主祭神です。
☆
伊農郷(いぬのごう)
(原文)
「出雲郡伊農郷坐 赤衾伊農意保須美比古佐和気能命之后 天瓺津日女命 国巡行坐時 至坐此処而詔 伊農波夜詔 故云伊努(神亀三年改字伊農)」
(いずものこおりいぬのごうにいます あかふすまいぬおおすみひこさわけのみことのきさき あめみかつひめのみこと くにめぐりいきますとき ここにいたりてのりたまう いぬはよ ゆえにいぬのという)
(現代文)
「出雲郡伊農郷(いずものこおりいぬのごう)に鎮座される赤衾伊農意保須美比古佐和気能命(あかふすまいぬおおすみひこさわけのみこと)の后である天瓺津日女命(あめのみかつひめのみこと)が国を巡ってここに至ったとき『ああ伊農(いぬ)よ』とおっしゃられた。ゆえに伊努(いぬ)という。(神亀三年に字を伊農に改める)
☆
赤衾伊農意保須美比古佐和気能命・天瓺津日女命は『古事記』には登場しない。
☆
(たいくつで眠くなるような記事で申し訳ありません。 はしの)