「出雲国風土記」その6 | はしの蓮のブログ

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はしの蓮です。古代史、古事記、日本神話などや日々のちょっとした出来事、気づいたことをブログに綴っていこうと思っています。また、民話や伝説なども研究していきます。

〈意宇(おう)郡の条〉

 

楯縫郷(たてぬいごう)

 

(原文)

「布都怒志命之天石楯 縫直給之 故云楯縫」

 

 

(読み下し文)

布都怒志命(ふつぬしのみこと)、天石楯(あめのいはだて)縫ひ直し給ひき。

故、楯縫(たてぬい)と云ふ。

 

(現代文)

布都努志命(ふつぬしのみこと)が天石盾(あめのいわたて)を縫い直された。ゆえに、楯縫(たてぬい)といいます。

 

 

布都努志命(ふつぬし)は刀剣の神です。大地を斬って縫い直す姿が目に浮かぶようです。

 

 

 

 

安來郷(やすぎごう)

 

安來郷には娘が和邇(わに)に食べられてしまうという悲しい伝説があります。

 

(原文)

「神須佐乃袁命 天壁立廻坐之 爾時 来坐此處而詔 吾御心者 安平成 詔 故云安来也」

 

「即北海有毘賣埼 飛鳥浄御原宮御宇天皇御世 甲戌年七月一十三日 語臣猪麻呂之女子 逍遥件埼 邂逅遇和爾 所賊不返 爾時 父猪麻呂 所賊女子斂毘賣濱上 大発声憤 號天踊地 行吟居嘆 昼夜辛苦 無避斂所 作是之間 経歴数日 然後 興慷慨志 麻呂磨箭 鋭鋒撰便處居 即擡訴云 天神千五百萬 地祇千五百萬 併当國静坐三百九十九社 及海若等 大神之和魂者静而 荒魂者皆悉依給猪麻呂之所乞 良有神霊坐者 吾所傷助給 以此知神霊之所神者 爾時 有須臾而 和爾百餘 静圍繞一和爾 徐率依来 従於居下 不進不退 猶圍繞耳 爾時 挙鉾而 刃中央一和爾 殺捕已訖 然後 百餘和爾解散 殺割者 女子之一脛屠出 仍和爾者 殺割而挂串 立路之垂也 安来郷人語臣與之父也 自璽時以来至于今日経六十歳」

 

(読み下し文)

「神須佐乃袁命(かむすさのをのみこと) 天の壁(かき)立ち廻り坐しき 爾(そ)の時 此處(ここ)に來坐(きま)して詔(の)りたまひしく 「吾が御心は安平(やす)けく成りましぬ」と詔りたまひき 故 安來(やすぎ)と云ふ 」

 

「即ち北の海に比賣埼(ひめさき)あり 飛鳥浄御原宮御宇天皇(あすかのきよみはらのみやにあめのしたしらしめししすめらみこと)の御世、甲戌(きのえいぬ)の年七月十三日 語臣猪麻呂(かたりのおみいまろ)が女子(むすめ) 件の埼に逍逢(あそ)びて 邂逅(たまさか)に和邇(わに)に遇(あ)ひ 賊(そこな)はえて切(かへ)らざりき 爾の時 父猪麻呂 賊はえし女子を濱の上に歛(をさ)め置き 大(いた)く苦憤(いきどほ)りて天に號(おら)び地(つち)に踊り 行きては吟(な)き 居ては嘆き 晝夜辛苦(ひるよるたしな)みて 歛めし所を避(さ)ること無し 是(か)く作(す)る間に數日(ひかず)を經(へ)たり 然して後 慷慨(うれた)む志(こころ)を興して 箭(や)を磨(と)ぎ鋒(ほこ)を鋭(と)くし 便しき處を撰び居り 即ち拝み訴(うるた)へて云ひしく 「天神千五百萬(あまつかみちいほよろづ) 地祇千五百萬(くにつかみちいほよろづ) 並びに當國(このくに)に靜まり坐す三百九十九社 乃海若等(またわたつみたち) 大神の和魂は靜まりまして 荒魂(あらみたま)は皆悉に猪麻呂が乞(の)む所に依りたまへ 良(まこと)に神靈(みたま)し坐しさば 吾を傷(いたは)らしめ給へ 此(ここ)を以ちて神靈の神たるを知らむ」といへり 爾の時、須臾(しまし)ありて 和爾百餘(わにももあまり) 静かに一つの和爾を圍繞(かく)み 徐(おもぶる)に率依(ゐよ)り来て 居る下從(ところよ)り進まず退かず 猶圍繞めるのみなりき 爾の時 鋒を擧げて 中央(まなか)なる一つの和爾を刃(さ)して殺し捕りき 已に訖(を)へて 然して後に 百餘の和爾解散(あら)けき 殺(た)ち割けば 女子の一脛(はぎひとつ)を屠(ほふ)り出しき 仍りて和爾をば殺ち割きて串に挂(か)け 路の垂(ほとり)に立てき 安來郷の人 語臣與(かたりのおみあたふ)が父なり 爾の時より以來 今日(いま)に至るまでに六十歳を經たり」

 

(現代文)

「神須佐乃袁命(かむすさのおのみこと)が国の隅々まで巡られたとき、ここに来られて、「わたしの御心はやすらかになった」とおっしゃられた。だから、安来(やすぎ)といいます」

 

 

神須佐乃袁命(かむすさのおのみこと)はスサノオのことです。『出雲国風土記』では「熊野加武呂乃命(くまのかむろのみこと)」「熊野大神命(くまのおおかみのみこと)」もスサノオのことです。

 

 

「この郷の北海(きたうみ)に比売埼(ひめさき)があります。飛鳥浄御原宮御宇天皇(あすかきよみはらのみやに あめのしたしろしめしし すめらみこと=天武天皇)の御世、甲戌(きのえいぬ)(674)年七月十三日、語臣猪麻呂(かたりのおみいまろ)の娘がこの埼を散歩していたら、たまたま和爾(わに)に出遭い、食い殺されて、帰ることもなかったのです。そのとき、父の猪麻呂は、残った娘の遺体を浜に埋葬し、たいそう悲しみ怒って、天に叫び、地に倒れ、歩いては泣き、すわりこんでは嘆き、昼も夜も辛い苦しみで、埋葬した場所を去ることもできないでいました。

そうする間に数日が過ぎました。そうしたあと憤激の心がおこってきて、矢を研ぎ鋒を鋭くし、場所を選んで座りました。そして神に拝み訴えて言うことには、「天津神(あまつかみ)千五百万、地祇(くにつかみ=国津神)千五百万、それにこの国に鎮座される三百九十九の神社よ、また海神(わたつみ)たちよ。大神の和魂(にぎみたま)は静まり、荒魂(あらみたま)は皆ことごとく、猪麻呂の願うところにお依(よ)りください。まことに神霊がいらっしゃるなら、私に和爾に仕返しさせてください。さすれば神霊の神であることを知るでしょう」と言いました。

そのとき、しばらくしたら、百匹ほどの和爾が、静かに一匹の和爾を囲んで、ゆっくりと近寄ってきて、猪麻呂の居る下に寄りつき、進みも退きもしないで、ただ囲んでいます。そのとき猪麻呂は、鋒(ほこ)をあげて中央の一匹の和爾を刺し殺して捕えました。すると百匹余りの和爾は散っていきました。殺した和爾を切り裂くと、娘の脛(すね)が出てきました。そこで和爾を斬り裂いて串刺しにし、路(みち)のわきに立てました。猪麻呂は、安来郷(あぎごう)の人で、語臣与(あたう)の父なのです。そのときから、もう60年にもなるのです」