細胞の多様性 ー単細胞生物から群体、そして多細胞生物へー | はし3の独り言

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 原核細胞が共生して誕生した真核細胞は、その後、多細胞化して巨大な生物体に進化することになります。

 

 我々のような真核細胞からできた真核生物は、そのなれの果てということになりますね。

  

 原始的な真核生物は、今もなお存在しており、はじめは単細胞で生活していたものが、やがて多細胞化するストーリーは広く信じられています。

 

 今日は、単細胞生物から多細胞生物への進化過程を想像させる生きものの話です。

 

 

 

 多細胞生物に進化したのは真核細胞からできた生きものだけです。原核細胞は全て単細胞生物として扱われます。

 

  ただ、原核細胞のものも「群体」は作ります。分裂して増えた後もその場に残り、同じ寒天様の物質の中で集団生活するものがいます。湿った地面で見られる「イシクラゲ」などがそうです。私はよく、手のひらより大きいものが大量発生している様子を見ます。

 

 細菌などの原核生物でも目に見える大きさにまで成長するわけです。でも、これはあくまでも単細胞生物の集まり(コロニー)であって、けっして多細胞生物と呼びません。

 

 細胞が集まっただけでは、多細胞生物とは呼べない。ここを理解しないと、暗いトンネルの中に入ることになりますね。

 

 

 多細胞生物と呼ばれるためには条件があります。

 

 まず、分裂して増えた同じ遺伝情報を持った細胞が複数の種類の細胞に分化して、一連の生命活動を支える仕事を分担しないといけません。

 

 我々ヒトの場合は250種類以上の細胞が生きるための仕事を分担し、組織だって振る舞っています。それぞれの細胞の専門性は高く、もう、一つの細胞だけで生活していくことができません。

 

 たった一つの細胞でも生きてゆける単細胞生物と、そうでない多細胞生物の中間の存在として、生物基礎の教科書では「細胞群体」が取り上げられています。 

 

 

 実はこの、「細胞群体」というワードが特定の群体を示しすぎていて、分かりづらいところになっています。

 

 「細胞群体」は「群体」と違うものです。

 

 「細胞群体」は「群体」と、細胞の数が種によって決まっていることにおいて、まず区別されます。

 

 つまり、集まって生活する上で細胞数に遺伝的な計画性が見られるのです。このため「細胞群体」は「定数群体」とも呼ばれます。烏合の衆ともいえる「群体」の場合とは、話が変わってきます。

 

 あと、細胞数が定まると、群体を形成したときの全体的な形態も決まってきます。ルックスが定まってくるのです。

 

 この例が、緑藻類の仲間で見られます。

 

 緑藻類にはクラミドモナス属という単細胞で生活するものから、分裂して増えた細胞が16個か32個の細胞が集まって群体生活するユードリナ属、500個以上の細胞からなるボルボックス属が含まれます。細胞数は種ごとに決まっていて、定数以上になると別の群体に分かれます。

 

 

 ユードリナやボルボックスになると、有性生殖を専門とする細胞の分化が見られるので、ちょっと多細胞的になります。

 

 細胞といえども、集団で生活する以上は役割分担と専門化が生じ、社会化が進んだのだろうと考えるわけですね。

 

 ここからは,動物の話になるのですが、様々な根拠から、我々動物の多細胞生物の祖先は、襟鞭毛虫の仲間だったと推定されています。

 

 襟鞭毛虫は単細胞で生活していますが、仲間に様々な形態で決まった形の群体を形成するものがおります。襟細胞という特徴的な細胞を含んでいることが特徴です。

 

 襟細胞とは襟巻きをした動物の精子みたいな形をしていて、一本の鞭毛を持ち、水流を操ります。

 

 

  この襟細胞は、海綿動物という原始的な動物にも見られます。海綿の内側にある一層の細胞の層が襟細胞でできていて、協力して水流をつくり、エサとなる細菌を取り込みます。他の細胞は、鞭毛を持たない表皮細胞やアメーバ細胞となっていて、自分ではエサをとらず、襟細胞から栄養を貰いながら他の仕事に従事しています。

 

 海綿動物までくると、細胞の分化どころか、同じ種類の細胞が集まって組織を作っており、多細胞生物の定義に当てはまります。

 

 様々な原始的な生物たちをよく調べ、単細胞生物から多細胞生物を並べてみると、なんだか、よくできた進化のストーリーが分かった気がするじゃないですか。

 

 ちなみに、我々の消化管のつくりの基本は海綿動物の内側の構造とよく似ていていることが分かっています。