聖地巡礼2 (鉄道編) | そういえば・・・

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橋本商工株式会社の社長のブログです

徳山駅から下松駅までは電車で2駅。

徳山ではスイカが使えないので、久しぶりに切符を購入。

200円也。改札で入鋏のかわりにスタンプを押す。

 

 

古い電車に乗る(山陽本線)

 

 

下松駅に到着。これは「くだまつ」と読む。「しもまつ」ではない。

タクシーで移動し、笠戸事業所に着く。

 

工場内は撮影禁止 インターネットから

 

日立さんの関係者様のおかげで大変な厚遇をいただく。

幹部の方の工場説明を1時間くらい聞き、この事業所が鉄道事業

以外、半導体、クレーン、ロボット、化学装置など、さまざまな

モノづくり事業の中核工場であり、勤務者が社内・社外含めて

6000名超えることを聞き、その人数に驚かされた。

 

 

笠戸事業所の前身は日本汽船という会社で、1921年(大正10年)

日立製作所に組み入れられた。その歴史はオール日立の工場の

中でも日立工場、亀戸工場についで3番目に古いという。

幹部氏の説明でも聞いたが、今wikiであらためて読むと

久原房之介、鮎川義介(日産)、小平浪平(日立製作所)という、

日産コンツェルンの創始の頃の伝説の経営者の名前が連なる。

 

 

大正10年の会社買収というのはどんなであろうか。社会インフラ

として、電話と汽車くらいはあったとしても、大変興味深いところ

である。ちょこっと調べてみると久原房之介という、全然知らなかった

この人が凄い人で、久原からすべてが始まったことを知る。

日産自動車も日立製作所もJXTGホールディングス(石油、他)も、

この久原が率いる久原財閥を源流に発するからである。

 

久原房之介翁   下松(山口県)に世界的な一大コンビナートを建設する

という、「下松大工業都市建設計画」という、幻となった構想をもった。

青木さん、そういうことのようです。

 

 

久原を読んでいると、今度は森村組という会社が出てきて、

こちらも財閥であり、一部は現在の三菱UFJ銀行、大半は

ノリタケ、TOTO、日本碍子という陶器の会社の大源流となった。

久原房之介は慶応大で森村市左衛門の講演に共感し、森村組に入社とある)

 

 

明治・大正期の日本の産業はこういった大人物の率いる財閥の

大きすぎる構想とスピーディな経営感覚で発展したんだな、と

感じさせられます。

 

六代目森村市左衛門翁   犬神佐兵衛ではない

 

 

さて工場見学である。工場内を歩くと、思いがけず涼しかった。

冷房でも入っているような涼しさに、「涼しいですね」というと、

幹部氏は「これは海からの風で涼しいんですよ」とのこと。

夕方になると山側からの風に変わるらしいのだが、その合間の

凪の時間帯は暑くなるそう。

 

 

前半は化学装置やクレーン製造、産業システムなどを中心に

東京ドーム14個分の工場の一部を見て回る。

鉄道車両出荷のための波止場(バース)につき、対岸の笠戸島を

見たら、反転して車で移動し、車両製造工場を見て回る。

 

 

ただ今、イギリス向けの鉄道車両製造と北陸新幹線の車両製造が

忙しそうだ。たくさんの新幹線が工程ごとの仕上がりで並んでいるさま

は壮観だった。アジア向けの車両もあった。通勤電車で、今どきの

日本の電車にはない形であった。また私鉄の新型車両の先頭車両

が丸くて可愛らしい。アルミ製。

 

インターネットより

 

 

新幹線は配線が凄い分量だ。電車の下部は恐ろしいほどの

ケーブルで、うっかり間違える、ということはないにしても、

ものすごい本数である。ボディはアルミ製でエンドミルによる

削り出しでリブを残し、強度を保つ。

 

生産品目の下敷きをお土産に

 

 

最後に鉄道資料館に入る。ここも写真撮影禁止。

大正から昭和にかけて蒸気機関車を量産していたそうだ。

国内、海外、特に満州向けの記載に歴史を感じる。

歴史といえば、工場建屋の柱間のビームに機銃掃射によって

穿たれた穴が遺されていた。操業中の自社製の

天井クレーン(日立製)は1937年製で、太平洋戦争以前の

設備が現役で動いているのには驚かされた。

 

 

以上の見学を終了し、帰途に着く。帰りの新幹線も4時間

以上。カチカチなアイスを購入したが、糖分が多かったのか、

こちらの方は軟らかかった。