エチオピアにはドルゼ族という民族がいる。




彼らはコプト教徒であり水曜日と金曜日には断食をする。




興味深いことに





彼らはまた豹もコプト教徒であると信じている。




しかしながらドルゼの人々は豹が人間をおそうことがないように水曜も金曜も守り番をしているのだ。




おかしい。




だって豹もコプト教徒だと信じてるなら




豹だって水曜、金曜は断食するんだから守り番をする必要はないのでは




と部外者である僕らは思ってしまうのだ。




これはコトバと「信」が矛盾するエピソードとして有名だ。




このエピソードのなにが好きかっていうと




僕らが偉そうに論理的矛盾を指摘したところでドルゼの人には意味がないってところだ。





僕たちの社会は論理的に矛盾するということを嫌うだろう。




特に高等教育をうけてきた人たちは。




だから




すぐに矛盾を指摘したくなる。




確かに学問や科学においてはその姿勢は大切だ。




しかし、



プライベートな人の生活や思想においていちいちそれを指摘することに意味はあまりないような気がする。



ロングの女の子がタイプと散々言ってたのにショートカットの子を好きになることもある。




甘いものはどうしてもダメと言ってても無性にドーナツ食いたい日はある。




夏が一番嫌いだって言ってても



いざ夏が近づいてくると




夏の独特の匂いにいろんなことを思い出して




あーーやっぱ夏が一番だなー



と言っちゃってもいいじゃない。



そのたびに



「論理的におかしい」




と言われ、




だからお前は意味分かんないだよとか言われても




人間なんてみんな意味わかんねえんだよ!!




って言ってそんな奴を大外刈りしてやりたい。




先進国から来た



偉そうな学者が悦に浸って





「それは論理的に矛盾してるよ」




と言ったのに対し




ドルゼの人が




「だから何??」




と言って鼻くそほじっている。




そして彼らは最高の笑顔で



「僕たちは豹もコプト教徒だと思っている。



だけど僕たちは豹に襲われないように今日も守る。



それでいいじゃない?」



って言う。



そんな光景を想像すると


実に痛快だ。




もちろん実際にそんなことはないんだけど。





論理的に正しいことがその人にとって「正しい」




そんな保障なんてどこにもない。





そんなお話。

「怖いものしらず」は



きっと



人一倍




「ビビり」だ。





例えばバンジージャンプなんかにハマる人は




人一倍怖がりだからこそ




やべー死ぬかもーーー




って人より本気で思うんじゃないか。




だからこそ





終わったとき




あー生きてるぜ~







何ともいえない充実感と高揚感を人よりあじわえるんじゃないか。







きっとほんとに怖がることをしらない人には




こういう感覚は味わえないんじゃないか。




つまり




この感覚は




ビビりの特権だ。





そうやってどんどんハマっていくんじゃないかなって思う。




怖いものしらずは




怖いものしらずしらず。




そんなお話。

こう暖かくなると旅行に出掛けたくなってくる。



自分で旅行に行くのももちろん楽しみだけど、



旅行から帰ってきた友達の話をきくのもまた楽しい。



そこで楽しかったという感想とともによくきくのは



「もっと勉強してからいけばよかった」



という言葉だ。



事前にある程度知識をいれていくことによって



旅先での景色をより一段と楽しむことができたかもしれなかった



という思いからの言葉だろう。



よくわかる。




自分もそういう経験がある。




しかし、




「旅の前に知識を持つことが絶対必要か」




と言われれば




それは微妙であるように思っている。




「人は自分の持ってる知識を通してしか世界を見ることができない」



とはよく言われることである。



事象のあるがままをみているつもりでも、




景色は自分の知識によって変わるのだ。



例えば、



ホームランを打った選手をみていたとしても



野球の素人はその飛距離に驚く一方で玄人はバットのコントロールに驚く




といった具合だ。



そういうことを考えると




知識を持つことはいいことに思える。




しかし、逆に



知識に頼った見方をしてしまう




という可能性もある。




中沢新一は



「学者は今起こっていることを知識の堆積によってとらえようとする」



と述べた。



なにも学者に限らず、




人間は年をとるごとに堆積した知識を生かして目の前の物事をとらえていく。



しかし、そうすると



知識の量に比例し感性に頼らなくなる可能性がある。




もしかしたら今起こっていることは




堆積された過去の知識ではとらえられないことかもしれないのだ。



バットコントロールがいいからホームランが打てたわけではないかもしれない。



もっと重大で




もっとおもしろい要因があったのかもしれないのだ。




それを考えようとしないなんてなんてつまらないのだ。




とすると、




旅の前に知識を入れることは必ずしもいいとはいえないのではないか。




旅という非日常の空間では今までに出会う機会のなかったものに出会う可能性が高い。




だからこそ



堆積された過去の知識が通用するとは限らず、



知識のみでなく感性でもそれらをとらえるべきなのだ。




もちろん




知識を入れることを全面的に否定はしていない。




だってやっぱり知識があったほうが世界は広がるから。



ただ大切なのは



知識を入れることそれ自体ではなく




知識をいれた上で、



何か物事をみるとき



「これはもしかしたら今までの知識じゃとらえられないかもしれないぞ」



と疑ってみることであり



「ええい、理屈じゃなくて感覚でとらえてみよう」



と開き直ることもたまには忘れないこと




そんなふうに思うのです。





やっぱ久々に書くとぼりゅーみーになるな。。。



おしまい。