A:動物を殺すのはかわいそう。だから私たちは肉食をやめ、菜食主義にするべきだ。
という主張があったとする。
それに対する「反論」として
B:人間の体には細胞形成のためにコレステロールが必要だ。肉はその人間の体に必要なコレステロールを含んでいるので私たちは菜食主義にすべきではない。
という主張があったとする。
ところがこれは
一見すると反論っぽいんだけど
実はAに対する反論にはなっていない。
ただ自説を展開しているだけだ。
Aの方は「菜食主義にすべき」というのが主張で
それを支える論拠は「動物がかわいそうだから」だ。
ということは反論は論拠を崩さなくてはいけないので、
植物も生き物なわけだが植物はかわいそうではないのか。動物だけをかわいそうとするのは理にかなわないのではないか。
というのが反論になる。
たぶん。
Bの方は結論が異なるという立場からその結論に至る根拠を主張しただけで反論ではない。
こういうふうに反論がないままそれぞれがそれぞれの主張を展開すると
議論に収拾がつかなくなる。
気持に余裕があるときはそこまで見られるんだけど
自分の主張に熱中しすぎたり、逆に集中力を欠いてぼーっとしていると
相手が論点をすりかえたことに気がつかなかったり、
自分が無意識に論点とずれた発言をしていたりする。
ま、
矛盾してこそ人間だと思うので
常日頃それを意識して、会話の中でいちいち矛盾を指摘する奴にはなりたくない。
けれど、
議論の場では冷静に論拠を検討できる人間になりたいもんです
そんなお話
実は
「イチローのフォームのまねが上手い」
といわれることが多い。
これには理由がある。
我が家はテレビの横にミラーがある。
ミラー越しでは右打ちの僕は左打ちになることができる。
そしてすぐよこのテレビに映る左バッターのバッティングフォームを見比べながら真似をするのだ。
加えて、僕の子供のころの野球界のヒーローといえばイチロー。
そんなことがあって
小さい時からマネをしまくったのだ。
そしてイチローのマネをだれかから誉められたとき
母親は決まって
「くだらないことでも何か一つ得意なことがあるってのはいい。
何かの役に立つかもしれないんだから。
誰かをすくうかもしれないんだから。」
という。大真面目に。
そして僕は
絵がうまい、歌がうまいとかならまだしも
「イチローのマネなんか一体なんの役に立つんだ」
と全然聞く耳をもたなかった。
前置きが長くなったけど、最近ドキュメンタリーをみた。
主役は教育研究者の人。
なんとこの人「泥だんごづくり」の名人なんだ。
光る泥だんごをつくることができるんだ。
そしてこのだんごを大学の研究室の機械で測定したところ表面に全然凸凹がない。
超完璧なんだ。
泥だんごを使って、子供たちとコミュニケーションをとるということを実践して、
子供たちが何を「楽しい」と思うか、なぜそれを「楽しい」と思うかを研究している。
泥だんごで遊ぶ子供たちはほんとに楽しそうだった。
そしてちょっと意外だったけど
幼稚園の先生達も「泥だんご教育」に寛容だった。
手先が器用になったり、自分でつくったものを大切にする心が育ったりするからっていう理由だ。
だけど研究者の人曰くほんとはそんなのどうでもいいんだって。
泥だんご作りがおもしろかったという思い出。
毎日が充実してて、時間が詰まってた。そんな思い出を残してあげるってことが一番大切
だそうだ。
その通りだと思う。
そりゃね
あとから振り返って「あーあのとき泥だんごに夢中になったことで今手先が器用なのかも」
て思えることはいいことだ。
けど
だからといって大人が
「子供たちの手先を器用にさせるために泥だんごづくりを教育に導入しよう」
って意図を持って強制するのはよくないと思うんだよ。
泥だんごづくりがあんま楽しくないって子には他のことやらせてあげればいいと思う。
だってこの世の中ではたいてい
何かに打ち込めば何か得られるようになってるんだから。
そう。
この研究者の人は泥だんごづくりが得意だっだ。
そして教育研究に活かすべく泥だんごづくりに打ち込んだんだ。
その結果、充実した研究ができている。
そして多くの子供たちの笑顔に貢献しているんだ。
やっぱりね
誰かさんのいうとおり
一見くだらないと思えることでも
何か得意なことがあればいいのかもしれない。
ほんとになにが人の役に立つかわかんないもんだ。
だって絵がうまいとか歌がうまいとかじゃないんだよ。
「泥だんごづくりがうまい」なんだから。
そう思うと、
僕の
イチローのフォームの真似も
いつか誰かを救うかもしれない。
そんなお話。