この言葉が、時々、脳裏にこだますることがある。
その度に、私は、自身の中にある「信念体系」を、
見つめ直すことにしている。
そして、その信念によって創られる「現実」を
シュミレーションしてみるのだ。

すると、
「あっ、だからこういう『現実』を作っちゃったんだな」
とハッとさせられることがよくある。

たとえば、自分の話でいうと、
私は10年以上前に一度、脳卒中になって倒れたことがある。
半身不随になって、病院のベッドに寝ていたのだ。

しばらくしてからハッと、気づいた。
「あれ? のぞみ通りになっちゃった」って。

なぜなら、当時、引っ越し前で忙しかったこともあって、
「私、ずーっと寝ていたい」と思っていたからだ。
なにがどうであれ、望みは叶えられたのだ。

その後から、日ごろよく思っている想いの質について、
意識的に考えるようになった。

そうしてわかったのは、
信じる限界が、表れる限界となることだった。
つまり、信じる度合いによって、
表れる度合いも変わり、
同時に、どの現実を信じるかによって、
表れる現実も変わってしまう、という「事実」だった。

言い換えれば、無数にある量子の海から、
どの波間を選んで、どんなお魚を釣ってくるかは、
その時々の想いの総和で決定づけられる、ということだ。

その中でも、影響力の強い「想い」が、
「信念体系」という固有振動だ。

特に、
「~すべき」や、「~ねばならぬ」
が多いときは、注意してみる必要がある。
自分の主体や創造性を、
他の何かや、誰かに譲り渡してしまうときに、
よく使いたくなる言葉だからだ。

そんな時は、
本当にそれは、「すべき」こと、
「ねばならない」ことなのか?

自らの内と対話し、
想いのソースを見つめることをおすすめする。
ハッと気づいた瞬間、
内から変容することがあるからだ。
それによって、
新しい現実に飛び出すこともある。

…まあ、生きていると、
いろんなことに出会うよね。
時には、
何でこんなことが? 信じられない!
と思うようなことにも…。

けれども、
今の私が、確かに思うことは、

その出来事の、
良し悪しを超えた、深いところで、
あなたの進化は、加速しているということだ。
そんな魂の準備が整ったからこそ、
いよいよ、次のステージですよ、と、
内からのゴーサインが出て、
現象化としてみるのかもしれないと、考える。

眼が前についているように、
私たちは、明日を見つめる。

さあ、手を伸ばせば仲間たちが、
上にはおひさま、下には大地が、
あなたを護り、手を差し伸べている。

今日も、明日も、
どうぞ、いい日でありますように…。

(長い文章になってしまいました。すみません)