さて前回に引き続き、選挙の公営掲示板の件ですが、テレビやネット上で批判の嵐ですが、多くの方々が「自分自身の知識と常識の基準」で述べています。

 

 昔は「選良」と呼ばれるように、衆議院議員をはじめ広くは選挙で選ばれる人はそんな表現で呼ばれていました。

 

 しかし、いま選挙に立候補して、当選する方々が、選良と呼ばれるように相応しい人たちでしょうか?自由な民主主義国家としては、立候補の制限はできませんから、被選挙権年齢は定められておりますが、それ以外はほぼ自由です。

 

 そして、投票する側の投票行動があるいは投票理由が何でしょうと問うたときに、本来の選挙制度に合致した回答が得られるでしょうか?

 

 選挙は、その有権者の意思(政治意識、レベル)を反映していると言われています。

 

 そして、しかるべき方々が当選している実態。それが民主主義なんですよね。

 

 

 話題を大きく変えます。先日デジタルリマスター版水戸黄門という番組をBS放送で見ました。

 

 すると正確には忘れましたが、現代には馴染まない表現等がありますが、番組の性質上ご理解ください。くらいのテロップが出ておりました。

 

 まさに昭和の大人気番組が自主規制も含め昨今の小うるさいコンプライアンスマニアによる影響を受けているのだなあと感じました。

 

 昭和の時代と物事の規範が大きく変化しているようです。私は昭和34年生まれ。

 

 社会人になるまで昭和でした。

 

 そうです。いま、この世の中は、「昭和の常識」の一部分は令和の時代には「非常識」になっているものも数多くあるようです。

 

 もはや私はついていけない状況です。

 

 現代の非常識というものにしてしまって良いのだろうか?という気がしてなりません。

 

 「常識」だったものの裏には大変な歴史的意味合いがあると思うのです。それを、ある一(特)定勢力による「考え方」(私は本当はイデオロギーと言いたい)で、日本国民が由緒ある、本来は世界に誇れる文化や伝統を、転換してしまうものになっているのではないかと危惧するのです。

 

 わかりやすいかと思われる例として、「捕鯨」があります。

 

 価値観や死生感の違う国々の活動家や思想家によって日本は追い詰められ、捕鯨がまるで人殺しに匹敵するかの如くに言われ衰退を余儀なくされました。しかしながら、水産庁の官僚の方々の活躍で、国際捕鯨委員会を脱退し、ザマ~みろ状態にしたようですが、こういうことです。

 

 自国の伝統文化をはじめ、自国の歴史を踏まえ、他国に洗脳され従属的追従をさせられるようなことがないようにしなければならないと思うのです。

 

 自国の理屈の押し付けは良くないと思うのですが、どうも我が国国民は素直で真面目でなんでも信じてしまうようです。