です。ブログの更新もできず、やる気の起きないというか、なんというか(笑)。
ここ数ヶ月の自民党の裏金問題と称するものの扱いに一気に政治へのコミットメントの気持ちが消え去っています。国民各位とは真逆の考え方に基づく怒りや落胆です。自民党のふがいなさ。憤りのみです。
この問題を押し戻せない大衆迎合的発想に対するものです。
テレビを見ていて、唯一救われたのは、検事出身の弁護士の方が、政治はカネがかかることは、言うまでもなく多くの人が言っている。その通りであり、そこを否定はしないし、「政治家」に聖人君子のような清潔さを求めることは大きな間違いである。
政治家になるということは「悪魔」との関わりをもつことだと言ったのは「職業としての政治」を書いたマックス・ヴェーバー。悪魔は年を取っていて知恵があるからその手法を知り抜く必要があるとも。彼は政治家に心情の正しさを要求する「心情倫理」ではなく、結果に責任を負う「責任倫理」を求めた。
権謀術策渦巻く政治の世界で目的のためには手段を選ばぬ現実政治の世界をこれでもかと描いたマキャベリの「君主論」。
という紹介もあり、何もかもの透明性などということを声高に言うメディアにうんざりし、それを素直に受け入れている自民党に幻滅をしているところです。
昨日現在で岸田総理が総裁として、政策活動費の透明性に関してギリギリのところで踏ん張っていますが、これを突破されたら、長年にわたって維持し続けてきた自民党の政治は終わるんだと思います。
もっとも現在の世論動向からすると、透明性を確保したとしても自民党政治の終焉があるのではないかと想像してしまう世の中の雰囲気を感じます。
そうなると、次は官房機密費とか触るべきではない国家運営の重要な機密の部分のお金に関することも表に出てくるともうどうにもならないのではないかと大変心配しております。
そんなことを考え始めると、自由で民主的で資本主義でという国家の体制がそれで良いのかと首をかしげたくなります。しかし、そういう問題ではなく、「自由」の解釈が日本という国はおかしいのではないだろうかと感じております。
「自由」には「前提条件」があるのではないかと思うのです。
同じように、
「民主的」あるいは「民主」にも前提条件があるのではないかと思うのです。
日本での自由や民主は前提無きもので、非常に危険な思想なのではないかと思うのです。
本日6月4日、お昼くらいの段階では、まだ、政治資金改正法の委員会での審議採決は不透明な感じ。どうなることやらです。