だいぶ前のネットの記事で気になったのでブログネタに使わせていただこうと考えていながら、なかなか手をつけていなかった件です。

 

 まさにタイトル通りの疑問を持ち続けています。

 

 というか、むしろ私は実はものすごくこだわっているかもしれません。

 

 まずはぜひお読みいただければと思います。

 

 連載:第6回 中竹竜二さんが聞く「伸びる組織」(左をクリックして下さい。)

 

 記事中の、

 中竹: 「さん」付けって最初はなかなか言いにくいかもしれないけれど、確かに「さん」付けができている組織では、お互いにリスペクトできている関係性が生まれますね。

 佐山: それと挨拶ですね。当たり前のことなんですけど、相手を認知しているからこそ声をかけるじゃないですか。声をかけないということは、相手の存在を認めていないことと同義です。だから挨拶と「さん」付けはいい会社の基本だと思っています。

 

 この会話、重いなあと思います。

 

 実は私が身を置く政治の世界。俺が俺がの世界です。最近は女性も増え私が私がという世界。とにもかくにも自分中心主義でかつ自分ナンバーワン。

 

 そこに、選挙対策が絡むからややこしいのです。

 

 「親しいふりをする」のが多くの議員。前記は見下しがあり、後記は見下しの中に、偽りの親しみを表す。

 

 「ちゃん」づけや呼び捨てによる親しみ感を醸し出す下心。それは他の呼び方も全く同様。要は「姓」にさんづけではないものは全て私は受け入れ難いものです。

 

 私が、呼び捨てで声がけをさせていただくのは、高校の同級生数人だけです。しかし、他の人がいるところではその同級生たちも、「さん」づけ。

 

 なので船橋市役所の中で、職員諸氏があるいは市長自らが、職員各位を呼び捨てで声がけすることにものすごく違和感がありましたし、いまでもありますね。

 

 記事の中でも「お互いにリスペクトできている関係性」と言う表現をしていますが、少なくとも私は基本は「来るものは拒まず去るものは追わず」で、その基本はまさに「リスペクト」からです。

 

 どんな人でも、本当にどんな人でもそこまで生きていた「経験」があり、「私の未経験、私と次元の違う『得るべきもの』」を持っています。私はそこを尊重して、そこを聞きたくて、常に人と接することに「ワクワク感」を持っています。

 

 元来、好奇心の塊とこだわりの塊ですから、おしゃべりの中からそれらを満足させてもらうものを探すのです。

 

 従って誰であろうと「敬意」以外の何ものもありません。何カッコつけてんだと言われそうですが、間違いなくそうなのです。

 

 先般も、神田の駅近くのスターバックスコーヒーの店舗の外側に、日焼けと垢にまみれたと思われるホームレスと思われる人がもたれかかって座っていました。

 

 写真を撮って話をしてみたい衝動にかられましたがぐっと我慢しました。

 

 中国・西安に駐在中に、現場事務所の門番の農民のおじさんそっくりで、初めて会う人に思えなかったんです。その農民のおじさんは、日焼けした顔で、ボロボロの人民服でボロボロの靴でいつも人懐っこくて、いつも笑顔で、いつも短いタバコを咥えていて、何言ってんだかわからない中国語で話しかけてきていたんです。

 

 たぶんあのおじさんが元気で暮らしているとは思えませんが当時の中国人は「文化大革命」それぞれの形で乗り越え、なんとか平和な生活になりつつあった感じです。誰と話をしても驚くことばかり。何を聞いても驚く経験ばかり。

 

 よくまあ、それらを耐え、乗り越えたなという尊敬することばかりでした。

 

なんだか話がずれましたが、ホームレスと思われる人だって、そこに至る敬意経過があるだろうし、それらは、あまりにも無情な日本社会の闇かもしれないし、その人特有の事情かもしれないし、ということで「避けて通るべき」人でもことでもないと思うのです。

 

 子供の頃、テレビのコマーシャルで笹川良一先生が「世界は一家、人類皆兄弟」っておっしゃっておりました。だからこそ、それぞれの人個々に敬意を持って接することが大切なんだと思うんですがねえ~。