またまた忙しさにかまけて更新ができませんでした。

 

 そんな時、まさに「巨星墜つ」と言うニュースで、石原慎太郎先生の訃報もあり、なんともなあ~と言う感じです。

 

 追悼のテレビ番組もあり、それらを見ながらいろいろと考えさせられました。

 

 橋下徹元大阪市長がおっしゃっていましたが、「パッケージ保守」や「ファッション保守」では無い本物の政治家だとおっしゃっておりましたが、まさに、いまもし都知事をお務めだったらどんなだったろうとなんて思いながら、昨今の新型コロナウイルス感染症対応の各都道府県知事の言動には「責任回避の姿勢」がアリアリでいや~な気分でニュースを見ることが増えています。

 

 平時には、地方に権限移譲をとか散々言っておきながら、様々な選挙結果等で、国論を二分しているとは言いませんが、とにかく火の粉を被りたく無い姿勢がそこかしこに垣間見える首長たちの発言には辟易です。

 

 なので、都政新報に掲載の記事を。

 都政新報から(左をクリックして下さい。)

 

 寄稿

 率直な発言に強い発信力があった

 元東京都副知事・明治大学名誉教授青山佾

 石原慎太郎元東京都知事の訃報に接して、残念でならない。自由な立場から闊達に国際情勢や国政、都政に対して元気のよい意見をもっともっと言ってほしかった。

 

 私は石原都政1期目の1999年から2003年までの4年間、副知事を務めさせていただいて、それは至福のひとときだった。当時、石原知事は東京や都政に対する思い入れがとても激しく、時に物議を醸すこともあったが、率直な発言には強い発信力があった。

 

 私は『太陽の季節』のときに少年だったから作家としての石原慎太郎作品をほとんど読んでいたが、その表現力や言葉の豊富さが都知事としての発言にも反映され、凝縮してほとばしっていて、とても頼もしく感じた。

 

 石原都政の1期目は特に東京の都市構造を大きく変えるときで、副都心政策から転換して東京全体のそして国際的規模、日本的規模で交通ネットワークを強化する時期だった。

 

 首都高中央環状線山手トンネル、羽田空港の4本目の滑走路建設と国際化、京急本線と羽田空港線の連続立体交差化など、大きなプロジェクトが石原都政1期目にスタートした。

 

 ディーゼルの排ガス規制は当初、実現困難と言われたが、ペットボトルにすすを詰めて振りかざすなど強烈なアピール力を示す一方、首都圏各自治体の協力も得て実現した。これは環境改善に資すると共に物流の確保に大いに貢献した。

 

 私たちはあの頃、世論調査をするよりも意見を石原知事にぶつけて知事の反応を見たほうが世論の動向がよく分かると言っていたくらい、石原知事は時代の流れをよく読んでいたと思う。その意味で石原知事は天才政治家だと思う。

 

 いま思い出すのは、会議が終わっても自ら先に席を立つことはせず、局長等が「知事、実はこういう問題がありまして......」などと発言をするのを待っていた石原知事の姿である。「俺は言論弾圧はしない」という言葉を私は何度か聞いた。「石原知事の副知事は大変だったでしょう」と言われることがある。石原知事は意見がはっきりしており、率直に物を言うので分かりやすい人である。だから副知事として仕えるのに大変ということはなかった。

 

 都議会の審議等のため、深夜まで都庁で待機するとき、私はよく石原さんの話を聞いていた。世界観、文明観から文学論あるいは生活実感まで、談論風発とは石原知事のためにある言葉だと思うくらい、その話は果てがなかった。私にとってあのときの問答は一生の宝物である。

 

 願わくは今後も天国から元気な意見をたくさん言ってほしい。

 

 記者席

 垣間見えた政治家の度量

 ○......「随分厳しいね、大学だったら落第だな」―。石原元知事で記憶に残るのは2011年、4選出馬直前のインタビューだ。本紙の職員アンケートの結果をぶつけると、こう笑って見せたのだった。「世論調査や支持率を気にしたら、何もできない。やることをやればいいんだ」

 

 当時は内心、「もうちょっと気にしてくれよ」とも思ったが、世論を気にして実行に二の足を踏んだり、発表の仕方をこねくりまわしたりする政治家も多い中、堂々たる“答弁”だったようにも思える。記者への「恫喝」とも思える言動も多い石原氏だったが、真正面から受け止める態度には政治家の「度量」が垣間見えた。

 

 ○......本紙の多摩地域担当記者が石原元知事を目にすることはほとんどなかったが、数少ない取材機会だったのが米軍横田基地と関連施設の視察だ。

 

 石原氏は1999年の知事就任直後、青山佾副知事らを伴って同基地を訪問。選挙公約に掲げた同基地の返還と民間空港化を主張した。その後、返還を最終目標としつつ、軍民共用化を目指す方針に「微調整」したが、在任期間中の多摩振興施策としては唯一、かつ最大の知事銘柄に位置付け、実現への論陣を張った。

 

 この問題を巡っては、08年に空域の一部が返還されて以降、目立った動きはない。石原氏の宿願が成就する日は来るのだろうか。

 

 ○......石原元都知事が亡くなった。在任中に都庁担当記者ではなかったこともあり、これという直接の思い出はないが、1度だけ隣り合わせに寝たことがあった。

 

 知事選翌日の都庁近くの高層ビル内のデンタルクリニック。まさに自分の治療が始まるその時に突然、周囲が慌ただしくなった。治療の椅子に横たわる自分の頭ごしに「選挙中は来れなくてね」と半ば怒ったような聞きなれた声。

 

 奥からは院長が出てきて「先生、ご当選おめでとうございます!」と敬礼。主治医は私を放って、石原元都知事の治療を先に行った。横入りされたのが懐かしい思い出だ。合掌。