私が所属する国際奉仕団体の子ども食堂研修会に行ってまいりました。
私はあまりにもこの活動を政治利用しようとする人が多いことから、私が所属する団体がどこで線引きをして関わるべきかを自分なりに整理をしたくて行ってまいりました。
講師の話は実態把握をかなりのレベルでできている上でのものでしたので、極めて信頼できるものだったというのが感想です。
ですから、講師の方が自らのライフワークとして行っていることは敬意を表しますし、立派な活動だと思いました。
そして全体的なネットワークの責任者をお務めのようですが、事業の「限界点」もわきまえていらっしゃる感じでした。
そこまでだよな、たぶん。と感じるところの表現は、まさに「言葉を選んで」いらっしゃいましたね。その言葉の選択を理解していらっしゃる方は少なかったんじゃないかなという印象です。
私は、そもそも子供の貧困は存在しない。と思っています。第一義的な子供の保護者が「貧困たらしめている」のが実態だと思っています。
なぜなら、行政は憲法第25条 すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。
② 国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。
という定めに基づきあるいは関連する法令に基づき各種制度をもって、生活保護、児童関連各種手当をはじめとして金銭的保障をしており、その後の使用に関しては受領した「大人」の責任であると思うのです。
とはいえ、ここで、講師もそうでしたが私もそうです。「とは言え」現実問題としてそこがうまくできない「大人」がいて、「子供の貧困状態」が生み出されているのです。くどいようですが、政府や地方公共団体の責任ではなく、保護者本人の問題であるということです。
では、一概に保護者たる大人の責任放棄かというとこれまた違う。これは、さまざまな要因があって、十把一絡げに語ることはできない状況が生まれています。
よく言われる、母子・父子家庭、いわゆる一人親家庭の問題ですが、これもそうなるに至った理由は千差万別。そして、そこを救済する手段も足りない部分もあるかもしれないけれど、できる限りのことを国や自治体が行なっています。
それでも、「それでも」という部分です。今回の講師の先生は、まさにその部分も十分に理解してお話になっておりました。
ある意味、現代日本社会の闇とは言わないのですが、先進国ならではの教育や経済発展の影の部分のような気がします。
長くなるのでまた。