最近漠然と、日本語の扱いの軽さに嫌気がさしていたのですが、それらによって、ブログの筆の進みが鈍ってしまいました。

 

 以前からその傾向があったのですが、なんとなくそれらを裏付けてくださるというか、私が感じていたことを、ある程度補ってくださるような雑誌記事を見つけ、私だけではないんだという安堵から、ちょっとキーボードに向かってみようかなという気持ちになりました。

 

 もともと左派系というか左翼系の論陣を張る方々には、その日本語力や日本語解釈の手法、傾向などについても「そういう人たち」であり「そういう捉え方しかできない」という先入観でおりましたし、自分自身で折り合いをつけるポイントがあったと思いますのであまり気にならない部分でした。

 

 しかし、保守系、右派という感じの論壇というか論客と言われ始めたような方々や、それらを「売り」にする方々の流行の媒体による「発信」には、「なんだかなあ~」感がやたらと漂っている感じです。

 

 さらに、私にとって決定打となったのは森喜朗東京オリンピク・パラリンピック組織委員会会長の発言にからむ一連の騒動でした。

 

 それ以前から、国会等における政治の場で取り扱う「問題」の幼稚化、日本語理解の矮小化と意図的拡大化など「日本語」という世界一美しく、意味深い文字形状とその意味・意義、背後にある「雰囲気」など表現のしきれないほどの日本語の奥深さを弁えない国権の最高機関の存在意義や、地元における地方議員の日本語理解力や粗雑な扱いにうんざり感満載状態になっておりました。

 

 昨今の外交問題の中でも、「右側」自称の方々が尖閣諸島の問題や中国の人権問題など声高に「発信」をしております。

 

 威勢よくワーワーがなり立てている感じが否めないなという思いです。

 

 先日、日米豪印首脳会議が行われましたが、これとどういう相関関係で中国をどう捉えていくかとか政府の外交の姿勢をどう評価するかはあまり聞こえてこなくて、「けしからん」「弱腰だ」しか聞こえてきていないのは残念です。

 

 国会では同様に「総務省職員の接待問題」で、「けしからん」「問題だ」ばかりで、具体的に国家公務員の倫理規定の問題点などを「改良」していく話など聞こえてきません。

 

 一方的に挙足取りやおおよそ国家国民の生活に直結するような問題を大激論を交わしているということとは程遠い国会審議がテレビ画面に出るたびにおぞましい感じがしてなりません。

 

 一方、地方議会においても国会の物真似の如く、字義通り解釈の横行で、議論の深まりのない、軽いものになっており、船橋市議会においても完全に市長提案議案の追認機関になっているので、非常に緊張感に欠けるものとなっていると職員が口々に言っている状況。

 

 日本語の持つ奥深さによって、その単語一つ一つの意味や意義を自身の経験や知識から深く掘り下げ理解する力が昔の国会議員や地方議員にはあったと思います。

 

 それは学歴などではなく、自身の経験に裏打ちされた「社会性」によるものであると思います。

 

 ところが、今猛烈に感じるのは「一側面だけを捉える」「自身の『浅』『薄』な知識経験だけで、国家国民、市民県民を語る政治にものすごい危機感を感じるのです。

 

 現在選挙戦が真っ只中の千葉県知事選挙に目を転じてみると、真面目に政治を考えている候補者と、何が目的だろうと考え込んでしまう選挙運動を行っているものなど、世相を反映していると言ってしまえばそれまでですが、なんとも世の中の動きがわからなくなってきている昨今です。

 

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