遺書 東京五輪への覚悟 森喜朗著を読み終えました。読書感想文を書くためにブログを書いているわけではありませんが、この2~3ヶ月、世の中の出来事と緊急事態宣言の過ごし方を考える中で、何冊かの本を読了したのですが、全てが相互に関連するものでした。

 

 

 

 

 

 

 私は小池百合子絶対的否定派ですが、それに反して、世の中では「肯定派」がいて、当選をする。

 

 そのことを理解できるのならば頑張って理解してみようと思ったのがきっかけでした。

 

 しかし、読む本読む本全てにおいて、私と同じ考え方が書かれ、むしろ世の中の不条理を炙り出すものばかりでした。

 

 同時に、「政治」に向き合う姿勢に関して、私は間違っているのだろうか?という自問自答の毎日ですが、「信念を貫く」にしても、多数の方々に支持される「信念」であるだろうか?など本当に毎日考えさせられる報道等を目にします。

 

 「正直な政治」と「偽善に満ちた政治」とでは私は「正直な政治」を選択します。本書の著書である森喜朗先生も一貫して正直な政治を行なってきた政治家だと思います。

 

 今回は、女性蔑視発言に仕立てられてしまったことに端を発し、東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会会長を辞任することになった事案について、またまた小池百合子の振る舞いに「?」となるシーンがあったため、急遽読み始めたものです。

 

 全編をみなさまにお読みいただきたいのはもちろんですが、巷間言われているようなポストへの執着など微塵もないことがわかる記述も含めせめて「おわりに」だけでも引用させていただこうかと思います。「はじめに」もそうなのですが、この本の執筆時点で、何度も辞任の意思はあったけれども、命を賭してまで、国家国民・スポーツ振興、教育のために尽力なさる姿が書かれさらには今般の東京オリンピック・パラリンピック競技大会の「仕組み」を丁寧に解説してくださっっています。

 

 是非お手にとって、ご購入をお勧めいたします。

 

 おわりに

 本書を閉じるにあたり、このことだけは記しておきたい。

 この本を書くに際して、私は妻にいろいろと相談をした。

 いささか口はばったくはあるが、妻は非常に利ロな人である。彼女は、私の一言一句、私が書いたもののすべてを点検し、自分なりの意見を述べる。それには、なるほどと思わされることがずいぶんある。口出しはあまりしないが、私に対する意見はきわめて厳しく、また至言でもある。

 じつは、タイトル案は二転三転した。当初、「遺言」という言葉を入れようと思い、妻に相談した。すると妻は賛成してくれ、そして「この際、思い切って会長を辞めたらどうですか」と言ったのである。正直、これには私も驚かされた。私はずいぶんと迷った。「覚悟」という言葉にしたほうがいい、と助言してくれる人もあったからだ。「覚悟」なら、東京五輪へ向けた強い決意表明になるが、「遺言」では、あまりに寂しいうえに、まるで組織委員会会長を辞めるかのようにとられてしまう、と言うのである。

 確かに、この助言には一理ある。しかし、私のガンとの闘いはこの新薬で完治したのか、一時的に押さえられているだけなのか先が読めない。いつ任務をまっとうできなくなるかわからない。そうした健康上の問題があるのに加え、後世のためにどうしても事実を書き残さねばならない、私の思うところを伝えておかねばならない、と覚悟をした。本書では多くの方々を実名を上げて登場させていただいている。これらのことを考慮して私は最終的に、タイトルを「遺書」にした。「遺書」なら机の引き出しの奥にしまうこともできる。「覚悟」と「遺言」を自民党流で足して二で割る手法で「遺書」に決めた。

 妻はこの間の、私を悪者に仕立てる東京オリンピック関連の無責任な報道、特に小池都知事が登場してからの、メディアの悪意を持って囃し立てる報道を前にして、毎日毎日、我慢の連続だったのだと思う。気丈な人だから強がりは言っているが、最近はやせ細り、あまり食事もとらなくなってしまった。私と同い年という年齢的なことや、私の看護・介護で疲れているということからすれば、それも無理からぬところではあるが、それにしても、私より先に倒れてしまうのではないかと心配である。

 ただ不思議なことに、妻にはどこにも病気がないように見える。本人も「どこも悪くない」と言う。医者によく診てもらえと言っても、「いやです。八十近くにもなれば、どこか悪いところがあるに決まっています。だからと言って、私が寝込んで倒れたら、結局、困るのはあなたでしょう。だから私は、あなたより一日でも長生きするつもりです」と、いつもそう返すのである。

 そんな妻が、ここへ来て私に「すべてを本に書き残しておいたほうがいい」と言う。それは彼女自身に、言いたいことが山のようにあるからだろう。我慢強い人ではあるが、我慢がならない悔しい気持ちが、積もり積もっているのだと思う。以前、あることで私が、テレビで根も葉もない批判を受けたとき、「あんな馬鹿なこと、言われっぱなしでいいの。きちんと反論を書いておかなきゃ」と言っていたことを思い出す。

 

 彼女は横浜の一商人の娘だった。四人姉妹の次女で、横浜共立学園から早稲田大学に進んだ。当時、早稲田には女子学生は少なかったのだが、私には彼女と出会う機会があり、つき合いを始めた。しっかりしていたが、政治にも行政にも関係のない世界に生まれ、生きてきた人だった。昭和37(1962)年、私は彼女と結婚をした。早稲田を出てから私は、新聞記者や政治家の秘書をした。そうした半分定職を持たないような私に、妻はじっと我慢してついて来てくれた。もちろん当初は共働きで、当時、月給は彼女のほうが多かったことを記憶している。

 昭和39(1964)年に長男、昭和43(1968)年に長女が生まれた。そしてその昭和43年、私は衆議院議員選挙に出馬しようと、妻と息子、娘を連れて石川県の郷里へ帰った。そこから私の選挙運動が始まったのである。これはもう筆舌に尽くしがたい闘いだったのであるが、ここでそのことに触れる紙面の余裕はない。

 妻も、私と同じ運命にあった。4歳の息子の手を引き、生まれて半年の娘を背中に背負いながら、私と一緒に懸命の選挙運動を始めた。なにしろ横浜の生まれなので、石川県には何の縁もない。親戚も友だちもいなければ、相談するところも、子供を預けるところも、よりかかるところもなかったのだから、妻はどんなに辛かったことだろう。私の郷里の家族、親戚、周囲の人たちは、温かくも厳しい目で、妻を見ていたようだが、それにもよく耐えたと思う。そして、この第1回目の選挙に、無所属の私は当選をした。その半分以上は、妻のおかげだと思っている。

 以後、選挙を14回闘ったが、1回も失敗することなく、43年間、政治の道を順調に、いや順調過ぎるくらいに歩んできた。その間ずっと妻は、政治家の女房としての常識的なお付き合いだけをし、人前には出ず、二人の子供を育ててきた。今、彼女の人生を振り返ると、私の犠牲となって生きてきたようなものである。私が75歳で政治家からの引退を決めたのも、あと5年か10年は生きられるだろうから、せめてその時間は、のんびりと女房孝行をしよう、と思ったからである。

 私自身、仕事でいろいろな国に出かけているが、その国の首都ばかり歩き、景勝地や観光地に行ったことがない。日本の国の政治家として、足を踏み入れていない道府県はないが、名勝地などにはほとんど行っていない。まして、妻を連れて行ったことはない。せめて残された5年、10年は、ボーナスとして妻を旅行に連れて行きたい。一緒に温泉に行きたい。散策もしたい。そういう思いで、じつは楽しみにして引退をしたのである。

 しかし、結果として私は、組織委員会の会長を務めることになった。私がまた忙しい思いをするだけではなく、妻には精神的な苦痛ばかり与えることになってしまった。心ない新聞、週刊誌、テレビといったメディアが、愚かな意見で自分の夫を叩き、おとしめている中、彼女はじっと耐えているのである。耐えているのは妻ばかりではない。娘や孫たち、そして私の知人や秘書といった人たちにも、同じように辛い思いをさせている。しかし、みんなはそれにめげず、一緒に闘ってくれている。これには感謝の思いしかない。

 私は心の中で妻に、「すまん、すまん」と手を合わせるような毎日である。せめて私がこの本を書くことによって、妻の友人、知人たちに、本当のところを理解してもらい、自分からものが言えない彼女の辛さを感じてもらえたなら、妻も救われるのではないか。そういう思いで本書を著した。つまりこの本は、ある意味では妻に捧げる本なのである。できうれば、いずれ私のあとに静かに来てくれないかと願っている。最後に、本書を監修しさまざまな助言をしてくれた、同じ大西鐵之祐元早大ラグビー部監督の門下生で、35年余に及ぶ「森番記者」の秋山光人氏に、深甚な感謝の意を捧げたい。

2017年3月吉日

森喜朗