今回も少々本論から逸れるかもしれません。
以前、このブログで私の会社員時代の社長の考え方や指導、大学のゼミの指導教授の人生論というか生き方を指導いただいたことについて書かせていただいたことがあります。
それは、最高のものを持ちなさい、経験しなさい。でした。できる限りのお金を払ってでも授業料と思って、良いものを食べて、良いものを持って、良いホテルに泊まり、良いものを着てというように、何でもできる限り最高のものを求めなさい。と。
大学時代の先生がそういうことを説いてくださったのちに、会社員になっても、社長を筆頭に役員の方々も同様のことをおっしゃって、場合によっては会社経費でも経験させてくださいました。
まさに以前にも書いたのですが、良いホテルを作るには良いホテルに泊まり、そのサービスを経験して、食事をしてその食事の良さを経験しなさいということでした。
従って、大学時代のゼミの懇親会はホテル。合宿も、より良い観光地におけるホテル。でした。
会社員になってホテル建設プロジェクトに従事している時には、国内では、帝国ホテルとホテルオークラの見学をし、より良い部屋を見せていただきました。その後の出張での移動では、すべて勉強ということで、ランキングの上から順にホテルは宿泊をして、食事をいただいて、サービスをすべて経験するということでした。
基本旅程は、西安に入るために、東京から香港に行き、香港泊をして、西安便に乗るというのが基本でした。
当時、半島酒店(ペニンシュラホテル)に泊まるとき(というかペニンシュラに限らず)、空港からホテル、ホテルから空港はホテルのリムジンサービスを利用してました。これは、当時は英領ですから、ロールスロイスでの送迎となってました。ホテルにもよりますが、一番すごかったのはホテル名は忘れましたが、ベンツだったと思いますが、ロングのリムジンで、乗車とともにおしぼりが出て、シャンパンを出されたことがありました。当時の香港は空港ホテル間の時間なんて大した時間ではありませんでしたから、驚きでした。
香港もホテルの一大展示場みたいな街ですが、ニューヨークも当然の如くそういう感じで、営業に米国に行った際にも、日本人があまり泊まらないクラスのホテルを用意してもらったこともあります。
そういう経験を数多く重ねましたので、ホテルに関してはそれなりの知識と、選択眼というか、それなりの評価ができるレベルに知識は達していると自負しております。
食事に関しては、日進月歩ですから、いまはあまり...という感じですが、これまた会社員時代役員の方々にご馳走になったものから、ご指導いただいたもの、その後自分での経験・研究で、それなりのレベルでの評価ができるものになったと思います。と申しますのは、ホテルプロジェクトに関わっている時から、今もそうですが、従業員の仲間として、調理長を始め、多くの調理人のスタッフ、料飲部門のスタッフと朝から晩まで同じところに住み、同じものを食べながら様々なことを教えていただいたのですから、その知識の量はかなりのものでした。
ですから、美味しいものと美味しくないものとの区別はつくつもりです。
まあ、OJTこそがと言う感じです。
で、やっと本題ですが、ものを判断する力、評価する力に関してです。
業務を委託して、委託業務をしてもらった結果について「評価する力」がなければ、「受領」していわゆる納品・完了が、市民の税金を効果的に使う結果になるかというと「?」が付くのではないかと思うのです。
私の自慢話でもなんでもなく、経験に勝る判断材料というのは無いと思うのです。経験に裏付けられた「判断」と経験もなしに、なんの裏付けもなく「机上の」あるいは「情報としての」判断材料は今度はその判断材料の信頼度、信憑性、裏付けのバックデータあるいはそのバックデータの信頼性などとキリが無くなっていくのです。
自身の経験は、少なくとも事実に基づいた「判断材料」となり得ると思うのです。
そして「経験」がない場合は、経験をすると同様により近づける努力をしない限り、「判断材料」とはなり得ないことは明白だと思うのです。禅問答みたいな、繰り返しをしてしまいましたが、私は正に経験に基づいた判断を常に心がけ、経験なし事案に関しては、経験により近く情報収集、それも信頼できる、信憑性のある情報収集に基づく決断を、決定をしてきました。
議員現役中に「負ける選挙はしない」という議員がいました。
私の政治、選挙に対する姿勢はそういう考えには相入れる部分はありません。政治家が、自身の信念を曲げることも厭わないと平気で言うようなその神経を疑います。この部分はこれ以上書きませんが、それが私の政治に対する考え方です。
さて戻しましょう。
「判断をする力」がない場合の判断。これは、後付けで自分の正当性をいくらでも付与できます。
私は、委託業務における成果品納品、受領から1年以上。
1年以上放置した。「熟読していない」「熟読できない」「熟読できる実力がない。」
例:漢字で書かれた中国語報告書を読んでいるような感じの受け止め方。同じ感じだから、都合よく解釈した。
1年以上黙って「気がつかれないで」進展していくことをただひたすら祈っていた。(意図的)
1年以上放置したのではなく、1年間自らの正当性を貫くための理論武装の研究をしていた。(意図的)
などが考えられますが、さてさて、何故なんだろうと言う疑問を次回は一緒に考えてみましょう。