前回の続きで、父の後援会長だった西山氏の新聞記事の続きを。

 

 今更ながらですが、ご存命の時にもっといろいろなお話を聞かせていただければなと思いました。興味深い話ばかりです。

 

 毎日新聞より(2000年3月20日 11時25分)

 追跡20世紀 特ダネで動いた戦後史(左をクリックしてください。)

 

 このスクープが、GHQに憲法改正案起草を決意させた−−政治部首相官邸詰め記者として「憲法問題調査委案」を入手した西山柳造さん(84)

 

 日本国憲法制定史に関する本で、毎日新聞の「法憲草案スクープ」に触れていないものを探すことは難しい。一国の憲法草案をスッパ抜いた結果の重大さを考えれば、明治以来のジャーナリズム史に特筆される大スクープといえるだろう。このドラマの面白さは、天皇主権の帝国憲法を守ろうとした人々をろうばいさせ、憤慨させた特ダネが、結果として天皇制を守ったという皮肉にある。当事者の政治部OB、西山柳造さん(84)は今も健在である。【政治部・山田孝男】

 

 −−他紙記者は仰天

 スクープが報じられた1946年2月1日の衝撃について、朝日新聞政治部の首相官邸詰め記者だった臼井茂さん(88)は、こう書いている。

 

 「当時寄寓(きぐう)していた常磐線・金町の義姉の家で毎日新聞をみて仰天した。憲法改正調査会試案の全文がのっている。顔を洗っただけで有楽町駅へ急いだ。各社が懸命に追っていたにもかかわらず、政府側のガードが固くお手上げだった草案をいったいどこで入手したのか。本社から車で総理官邸に駆けつけ、楢橋(ならはし)渡・書記官長(官房長官の旧職名)の部屋で待っていると、間もなく楢橋が渋い顔で登庁してきた…」(「政治記者OB会報」97年3月8日号)

 

 いったい、どこで?−−という疑問に切り込む前に、憲法制定史を簡単におさらいしておこう。「憲法草案スクープ」といっても、現行憲法の草案を特報したわけではない。幣原内閣の「憲法問題調査委員会」(松本烝治(じょうじ)委員長)がまとめた案をスッパ抜いたのである。それが天皇の統治権にこだわった非常に保守的な内容だったために、連合国軍総司令部(GHQ)が本格的な干渉に乗り出した。

 

 GHQはスクープ直後から10日間で「象徴天皇」と「戦争放棄」を骨格とするモデル草案を作成し、日本政府に受け入れさせた。現行憲法が「米国の押しつけ」といわれるゆえんだが、GHQと天皇や日本政府との交渉過程では、むしろ日本側が「国民主権」や「戦争放棄」に進んで共感を示したと解釈できる資料があり、それらが「押しつけ」否定派の論拠になっている。

 

 −−乱れ飛んだ諸説

 「いったい、どこで」草案を入手したのか。それは長い間ナゾだった。西山さんが最初に口を開いたのはスクープから27年目のこと。73年、英米法学者、田中英夫氏のインタビューに応えて「委員会の事務局から特ダネを取った」と舞台裏を明かしたのだが、一部の専門家の目に触れただけで、ジャーナリズムに取り上げられることもなかった。さらに24年後の97年、西山さんは「政治記者OB会報」に手記を寄せ、同じ趣旨を語っている。

 

 このニュースの出どころに関心が集まるのは、真相次第で歴史の解釈が変わる可能性があるからである。憲法制定過程を考察した児島襄氏の「史録・日本国憲法」も、江藤淳氏の「一九四六年憲法−その拘束」も、それぞれ西山さんの取材源を推理しているが、結局特定できずにサジを投げている。

 

 歴史の解釈が変わるというのは、スクープが意図的な機密漏えい(リーク)だったかどうかという問題にかかわる。この報道は、天皇に関する旧憲法の規定をなるべく変えまいとした当初の日本政府の意図とは正反対の結果をもたらしたわけだから、なんらかの政治的な背景があったのではないかという疑問が出たのは当然だった。

 

 当時、現実に「吉田茂の観測気球」説がささやかれていた。松本委草案でGHQが納得するかどうかを試すため、日本側高官がリークしたものに違いないし、それができるのは、知謀と胆力を兼ね備えた吉田(当時は外相)くらいのものだ−−という推理だった。

 

 一方、政治的ではないが、松本委員会の起草メンバーだった宮沢俊義東京帝大教授(憲法学)の弟、明義氏(故人)が当時、毎日新聞東京本社の文化部におり、そこから情報が漏れたという見方もあった。

 

 私は「政治記者OB会報」に手記が出た直後、インタビューしたが、西山さんは「吉田茂」説も「宮沢教授の弟」説も、明確に否定した。そして「首相官邸1階にあった松本委員会の事務局に協力者がおり、極秘に草案を借りだした」のであり、「当時、有楽町にあった毎日新聞東京本社に草案を持ち込み、デスク以下で手分けして書き写したうえ、2時間後に元に戻した」と証言した(記事は97年5月3日朝刊に掲載)。

 

 初めに「西山さんは健在」と書いたが、高齢であり、最近は千葉県習志野市の自宅に引きこもっている。今回、面談はかなわなかったが、代わりに書面で質問したところ、回答を得たので、他の史料も参考にしながらスクープの楽屋ばなしを続ける。

 

 −−功を奏した配置

 「毎日新聞百年史」(72年)の中で、西山さんは、こう回想している。

 「私らが食い込んでいたともいえるが、政治部長高橋司三治(しさじ)の配置もよかった。当時私は官邸を持っていた。官邸記者でありながら宮内省も持っていた。したがって枢密院にも関係した。政治部長は憲法を中心に取材せよといわれたが、各社では宮内省は社会部記者しかいなかった」

 

 政治部、社会部といった縦割りの縄張り意識にとらわれず、「憲法」を標的にして組織横断的な取材を展開できたことが勝因だったというわけである。「横断取材」の成果とは、特に枢密院筋から松本委員会の動向に関する情報をつかみ、その上で同委事務局を攻略したという意味らしい。

 

 当時、毎日の官邸クラブは住本(すみもと)利男キャップ(故人、後に毎日新聞副社長)以下、西山さんともう一人の記者の3人だけ。住本さんは敗戦当時の政府や軍の関係者の証言をまとめて「占領秘録」(52年)を残した。この中で「楢橋渡氏(内閣書記官長)の話」として、GHQがモデル草案を日本政府に「押しつけた」事情について、こんな推理を紹介している。

 

 「極東委員会などを中心とする国際情勢が、天皇制をやめて日本を共和国にし、共和主義的な憲法をつくろうという気運を強くしてきたためではないか」

 

 「あんなに急いで、しかも極秘につくり、できあがるとハッセー中佐が11通の案文を持って特別仕立の飛行機でワシントンに急行した。極東委員会に間に合わせたのだが、こうした事実から判断して、極東委員会の動きに先手を打つためだとしか考えられない」

 

 極東委員会(FEC)は45年12月の米英ソ3国外相会談で設置が決まった戦勝11カ国による対日政策の最高決定機関。ワシントンに置かれ、天皇の戦犯裁判を要求していたオーストラリア、ニュージーランド、ソ連も含まれていた。

 

 これに対し、東京に進駐したGHQのマッカーサー元帥は昭和天皇や日本政府首脳部との接触を通じ、天皇制存続を占領政策の基本にすえる判断を固めつつあった。

 

 −−記者生涯の誇り

 これは憲法草案スクープの歴史的意義を探るうえで重要なポイントである。政治的にはマッカーサーはFECの下に置かれ、新憲法制定のような重要事項はFECが決めることになっていた。しかし、天皇制をめぐってマッカーサーとFECの見解は食い違っていた。FECの初会合が開かれるのが46年2月26日。下世話にいえば、マッカーサーは「それまでのドサクサのうちに新憲法を作ってしまおう」というハラだったというのが通説である。

 

 「新憲法の誕生」(中央公論社)の著者、古関彰一独協大教授は同書の中で「もし毎日スクープがなかったら、事態はどう展開したか」という仮定をおき、その場合は政府案の公表とGHQとの調整に手間取り、マッカーサーは結局FECをだしぬけず、新憲法制定にFECの干渉を招いただろうと推測したうえで、次のように結論している。

 

 「毎日のスクープは政府案を非公式に公表させ、GHQばかりでなく国民にも政府案を知らせ、その評価が低いことを政府に納得させ、政府の正式草案の前にGHQ案を示して『指針』を与え、急速度に草案作成に向かわせる絶好の機会となった」

 西山さんは「政治記者OB会報」に寄せた手記の中に、こう書いている。「このスクープが、GHQみずから憲法改正案の起草を決意し、日本政府に提示するきっかけになったことを考えれば、現在の日本国憲法の制定に一役を担ったといえる」

 

 「このスクープはとりわけ新聞記者の本懐であり、生涯の誇りである」……。

 

 後輩記者の目−−天皇に絡む宿命

 1946年に限ってみても、西山さんが放った特ダネは「部長が数えてみろというので数えたら47本あった」(毎日新聞百年史)という。それも、皇室典範、国会法、内閣法、民法、刑法、刑事訴訟法の各草案といった重量級を連発したというのだから、ライバル社の担当記者たちは、たまらなかっただろう。

 

 今回、書面で西山さんとやり取りして新しい逸話を知った。46年2月18日、AP通信社長ら米国のジャーナリスト3人が天皇と会見した。当時、宮内記者会で唯一の政治部記者だった西山さんは「外国の記者は会えて日本の記者は会えないのか」と猛烈に運動し、記者クラブ員の「謁見(えっけん)」が初めて実現した。宮内省(当時)の門外に記者たちがズラリと並び、天皇が帽子をとって一人ひとりの紹介とあいさつを受けたという。

 

 天皇が「現人神(あらひとがみ)」の時代には記者会見などなかった。今日、天皇誕生日と外国公式訪問に先立つ天皇会見が慣例化しているが、そのパイオニアは西山さんだった。夢中で特ダネを追いかけながら、いつの間にか戦後の天皇制というものに非常に深くかかわっていた。そういう西山さんの「宿命」を感じる。

 

 ●西山柳造さん 42年入社。政治部に配属。43年応召。45年9月、政治部に復帰。憲法草案のほか「ダレス・鳩山会談」(51年)など大型スクープを連発。55年の保守合同で自由党の大野伴睦と民主党の三木武吉を引き合わせ、自民党結成の舞台を用意したことでも知られる。71年退社。

 

 ●1945年~46年●

45年10月25日 内閣に憲法問題調査委員会(委員長に松本烝治国務相。通称・松本委員会)

      27日 調査委第1回総会

46年 1月 1日 天皇、神格化否定の勅書(人間宣言)

      26日 調査委、最後の調査会

      29日 閣議で調査委草案の審議開始(2月初めまで連日)

    2月 1日 毎日新聞が草案をスクープ。閣議で松本国務相がスクープに触れ、「内閣に責任はない」と発言

       2日 調査委、最終総会

       3日 マッカーサー、「戦争放棄」など憲法改正3原則を提示

       8日 調査委、憲法改正要綱をGHQに提示

      13日 GHQ、要綱を退け、日本政府にGHQ案を手交

      26日 極東委員会第1回会合(ワシントン)

    3月 6日 政府、憲法改正草案要綱発表。マッカーサーが承認の声明

    4月17日 政府、日本国憲法草案正文を発表