実力が試される時だ!(2)に書かせていただいたことの続きと言っては変ですが、こういう物を書き始めています。これって序章部分なのですが、まだ初稿です。

 

 1回ブログに載せようかなと考えたところ、最後の方の部分は少々雑になっています。今後は、ご披露は控えさせていただきます。

 

 チームで校正、校閲を繰り返しながら、仕上げようと思っていますので。これは本当に触りの部分の序章の初稿。目次も戦略上わかりにくいものだったのですが、目次も日々ブラッシュアップしています。

 

 では、お楽しみください。

 

 地方の危機 ~あなたの街は大丈夫?~

 

 今、皆様に最も近い「行政」機関である、市町村の役所が危機的状況であることをご存知ですか?

 

 「公務員」というと、事なかれ主義。前例踏襲主義。縦割り社会。高給取り。定時帰り。年金が手厚い。等々。

 

 私は、「公務員全体=悪」というつもりは毛頭ありません。公務員全体を「悪」や「無能」とするものではないのですが、ステレオタイプの事情をよく知らない方々がまさに「公務員全体=悪」のようにいいます。それはある意味当たらずとも遠からず。でもあります。一部のほんの一部の心無い公務員のせいで、全体のイメージを悪くしています。しかし、それだけで私は危機的状況というのではありません。

 

 いま、日本全国の市町村の役所、役場は、両極に分かれています。

 

 多くの方がご存知ないとは思いますが、時折ニュースなどで聞かれる「地方分権」について、随分と変化、変革が進んでいるのです。平成11年頃から、地方分権を進める議論が行われ、毎年着実にそれが進んでいるのです。

 

 簡単に申し上げますと「国」は国、「地方」は地方でものを考え、その地方の「地域の事(実)情に合わせた行政運営」が行われるようになっているのです。

 

 地方分権一括法という法律を核に、国による地方への「支配」のような構図は無しにしましょう。ということなのです。

 

 改正された地方自治法に次のように、国と地方公共団体のあるべき姿が示されています。

 

第一条の二 地方公共団体は、住民の福祉の増進を図ることを基本として、地域における行政を自主的かつ総合的に実施する役割を広く担うものとする。

○2 国は、前項の規定の趣旨を達成するため、国においては国際社会における国家としての存立にかかわる事務、全国的に統一して定めることが望ましい国民の諸活動若しくは地方自治に関する基本的な準則に関する事務又は全国的な規模で若しくは全国的な視点に立つて行わなければならない施策及び事業の実施その他の国が本来果たすべき役割を重点的に担い、住民に身近な行政はできる限り地方公共団体にゆだねることを基本として、地方公共団体との間で適切に役割を分担するとともに、地方公共団体に関する制度の策定及び施策の実施に当たつて、地方公共団体の自主性及び自立性が十分に発揮されるようにしなければならない。

 

 ここにあるように、国も地方公共団体も双方ともに、「自主性及び自立性が十分に発揮されるようにしなければならない。」のです。

 

 従って、地方公共団体とは「自」らの意思で、責任を持って「治」める、団「体」としての「地方自治体」になるのです。自ら治めるということは、その責任は平成11年以前のように、国の指導、指示に従っていれば良い時代では無くなったということなのです。

 

 たぶん多くの事業者の方などが市役所や役場の窓口で「国の指導なんですよ~。」なんて話を聞いたことがあると思うのです。そのような殺し文句の如く使っていた文言も大幅に使えなくなったのです。

 

 多くの権限が基礎自治体とも言われる、住民と直接話をする末端の行政機関に「責任をもって、あなた方の裁量で決めて行政事務を行なって結構ですよ。」ということになっているのです。

 

 大きく変化をした地方行政の責任の重さやあるべき姿をしっかりと理解をしている職員を抱える地方公共団体は、その責任と職務を着実に住民の生活に反映させるようにしているのです。さらには、その新たな国の地方に対する考え方の中で、住民に代わって意思決定をしていくという重く大きな責任を負う議会も深く認識をし、その責任を全うしようと不断の改革努力をしている地方議会が増えてきております。

 

 一方で、船橋市を例にとりますと、私ごとですが私はそう言う議論の始まる前に市議会議員に当選をしました。そして、3人の執行機関の責任者である市長の仕事ぶりを拝見してきました。

 

 一人は地方行政をも所管する官庁のキャリアOB、一人は父親が2代前の市長だった県議経験者、一人は前市長の姻戚関係にある職員OBです。

 

 極めて典型的な前職の色合いが異なる市長だったわけですが、ちょうど国の動きが変わった時は県議経験者の市長でした。お殿様のような旧家の旦那のような感じの方と表現をさせていただきます。父親の時代に様々な形で関係する職員が人事に関する辞令交付を受けていた関係で、ある意味「忠誠を誓う」ような職員もおり、どちらかというと旧態依然とした「役場運営」のような感じで、ほんわかした、職員にはやさしい、否、優しすぎる職場環境が築き上げられました。簡単に言うと「良きにはからえ」でした。

 

 それが蔓延してくるとどういう状況になるかということも目の当たりに拝見いたしましたが、東京都の衛星都市、ベッドタウンとして、いまだに人口増をしている市ですから、地方へのお金の流れ(国からの権限委譲等に伴う莫大な予算の流入、使用決定権限)と住民増に伴う歳入増(税収増)と相まって極めて順調な行政運営ができているように見える市役所でもありました。

 

 この市長の当選当初は、まだ地方分権議論はなく、ひな鳥のように口を開けて巣の中で待ってさえいれば、親鳥である国が餌(予算)を持ってきてくれる。ような状況でしたから、「よっしゃよっしゃ、良きにはからえ」で良かったのです。

 

 その後、前述したように地方分権が始まった時期には、縁故以外に優秀な成績で入庁した職員も数多くいたのですが、まだ旧態依然の上司たちにブレーキをかけられ、いわゆる「大過なく、前例踏襲をしていくことを旨とし、それを正義としている。」勢力によって、コントロールされておりました。それはやがて、優秀な職員をも刹那的な判断、感情を停止させ、楽な方、楽な方へと流される雰囲気を醸し出し、「ある意味」で仕事のしやすい職場を作り出しました。

 

 それは公務員にとって働きやすい職場であり、住民が不在になっていることは言うまでもありません。

 

 議員の私にも一般の市民にも「役所用語」を頻繁に使い「ケムに巻いてその場をしのぐ」。あとは社内営業をしていれば身分は安泰ですから楽なものです。

 

 そのような職場社会が形成されると、公務員の本分をわきまえた職員の方が少数派になり、正論を述べようとも通らなくなる絶望的な状況が生まれました。それでも、県議会議員を経験した「政治家」ですから、少数派の扱いや人の機微に触れるような部分の取り回しはできており、さらには前述したように行政運営に外的要因としての風が吹いていたわけですから、結局はほんわかとしたゆるやかな市役所運営ができたのです。

 

 言ってみれば、民間企業でヒット商品が出ている企業と類似する商品を売っていたら、その品質や機能などに関係なくなんとなく売上が伸びちゃう。そんな感じで、会社そのものの実力と成績が一致していない。そんな感じの役所だったのです。

 

 4期16年間そのような市政運営を行うと風土そのものがそのように定着をしてしまいます。そうなってくると善と悪、正義と不義の価値観、判断基準さえも違ってきます。そういう状況が「当たり前」になり、チェック機能をもたなければならない議会もそれが「当たり前」とする状況に陥ったならばもはや、手の打ちようがなく、市民の皆様に訴えようにも、多勢に無勢、むしろ少数派であることが異端であることにまでされてしまいます。

 

 善良な市民を騙すこと。本人たちは騙しているなどと言うことは感じもせず、ストックホルム症候群のような状況と言えるのかもしれません。

 

 私は、自らの信念と自らの正義を貫き通すためにも、常に外に視線を置き、視点も外からのものとし、常に安定した正しい道を意識できる立ち位置を維持してきました。

 

 今、市長が先代の意思を引き継ぎ行政運営を行なっておりますが、政治の世界にいなかった者が、むしろ公務員の中の者が自らを律する基準が狂っていることを意識できない状態で行政運営を行なっていることに「疑義」を生じさせないこと自体もはや末期的と思います。

 

 中にいた者の責任は微塵もなく「行財政改革」を言い、大金を使う事業を2年間だけ凍結をし、住民サービスを強制的に縮小傾向に持っていき、自らの反省もなくその失政を覆い隠そうとするその姿は、慚愧に耐えません。

 

 議会という場に身を置いていた自身が非力で放置してきたこと自体に猛省をし、時代の流れに合致したあるべき姿を善良なる市民の皆様に提案するものです。

 

 一人でも多くの賛同を得ながら、行政経営、運営の本質でも住民本位の立場でこれらを磨き上げ多くの市民の皆様が望むべきこととしていきたいと思います。