小難しいことを言うつもりはありません。

 

 でも、あいちトリエンナーレ2019の騒動を見ていて、現地まではいけませんからネット上の騒動を見ているだけの、偏った考え方なのかもしれませんが、いろいろと考えさせられることが多く、妙に気になっています。

 

 それにしても便利な時代になりましたね~。インターネットが普及していない時代には知り合うこともなかったような方々のつぶやきが聞こえて来たり、貴重なお考えや、丁寧な説明などを自宅でキーボードをカタカタ、パタパタパタパタやっているとわかる時代です。

 

 今回のあいトレ(最近こう短縮形にされているようです。)が、収まりつつあるのかと思いきや、そうではなくて、逆に深く潜行している感じなんですね。

 

 私は仕事柄、「表現の自由」と「公費投入」についてだけを気にしています。

 

 表現の自由は、本当に心の底から、表現をする人の感性というか、教育程度というか、その「人」そのものだと思っておりまして、それをどこでどうしようとその表現する人の「責任」と「覚悟」でやれば良いことでなんら制限をされるものではないと思っています。

 

 ただし、そのことに関して公の金銭が伴うことは、如何なものかと思うのです。それをわかりやすく説明してくださっていたのは、橋下徹氏の記事です。

 

 橋下徹「表現の不自由展が失敗した本当の理由」

 (上記をクリックしてください。)

 

 この中にも記述がありますが、地方公共団体が会場を貸す、「公民館」などでは時折問題が起こるのが、「政治的要素の入った集会やイベント」です。簡単にいうと、このことに関して記述にもあるように、地方公共団体が協賛や後援をしたり、施設利用、使用の許可をすることなどがあります。

 

 この公的要素に解釈されやすい「公的施設利用」「協賛」「後援」などは、ある意味「信頼性」とか「公共の福祉」というか、なんといったら良いでしょうか公的担保みたいな意識で受け止める方々が数多くいると思うんですよね。

 

 ネット上で見つけた興味深い記述から考えてみたいと思います。

 

 ルイ・ヴィトンや日清食品からの圧力のみならず、殺害予告、通報にも屈せず表現をつづけるアーティスト 岡本光博 | 表現の不自由時代 01

 (上記をクリックしてください。)

 

 ろくでなし子 なぜ女性器だけタブーなのか? 権力による規制に、アートの力で笑いながら疑問を投げかけるアーティスト | 表現の不自由時代 02

 (上記をクリックしてください。)

 

 エロや政治的表現で度々抗議を受けている会田誠。美術業界は自由? | 表現の不自由時代 03

 (上記をクリックしてください。)

 

 これらを読んでいくと、表現を自由に行うということは、時と場合によっては、「法律」に反する行為を行うことになるということで、それを「自由」ということで行い続けるのか、完全なる「私事」としてこっそり楽しむのか。芸術とは作者以外に評価されてなんぼの世界という意識(私の勝手な思い込み?)の中で、どこで作者が折り合いをつけるかってことがあると思います。

 

 従って、表現の自由を言う限り、法律違反と隣り合わせで、それが「反権力」となり、政治的意味合いをもってしまい、いろいろなところに摩擦というか、問題を起こす要素がうまれてきてしまいます。

 

 それらのことについて考えるヒントが書かれているのが、上記の記事かなと思いました。特に会田氏のように、わかって、わかりきってという感じが、我慢はあるのでしょうが賢明な芸術活動だなと感じました。

 

 と同時に、やはり法律と芸術による表現の自由を確保、担保するには「公」は難しいなとつくずく感じました。「公」のメガネに叶うものだけが、「芸術」では無いでしょうし、私が問題視している少数派の評価の対象となる芸術に「公費」を入れることの是非でいうと「否」であり「非」であると思うのです。

 

 ですから、民間の皆さんのより深い理解のもとに、民間資金で健全な後援によって、様々な表現空間がたくさん作られることを願いたいですね。