憲法と政党 : 国法学資料五篇

 

法学博士 美濃部達吉 著

憲法と政党

国法学資料5編

日本評論社版

 

少々小難しい話で恐縮です。

 

前回の続きです。

 

 もっともその時代の国民及び政治家は一般に民主主義ではなく自由主義の人々であった。而して市民的自由主義の理論---その思想が近代の憲法を創造し及びその発達の趨勢を定めたものであるが---は全然政党を否認するか、然らずとも政党組織が議会の意思の構成に勢力を有することに対して徹底的の反対を為したものであった。

 

 国民代表制度の根底を為して居る見解に依れば、代議士はその選挙人又は選挙区の代理者又は受任者ではなく全国民の代表者である。此の思想はイギリスにおいては18世紀に於いて既に定説となって居り、フランスでも、1789年7月の国民会議に於ける決定的の議事に於いてはシイエース、ムニエー、タレーランの影響に因り等しく此の見地に立った。シイエースは曰く「代議士は選挙区に依り選挙区民全体の名に於いて選挙せられる。しかし代議士は国民全体の代議士である。総ての市民は皆その被代表者である」と。それ故に代議士は訓令を受けず命令的委任を受けずして議会に出でねばならぬ。彼は自分自身の意見の支持者である。最も望ましいのは他の議員との討論の末始めてその意見を定めることである。自由なる討論から共通の意見が発生する。シイエースは之を反駁と衝突との結果であると為し、有益の意見と有害の意見とがそれに依って分離せられ、或るものは沈み或るものは浮び出で、遂に総てが統一的の意見に融合一致するに至るとして居る。カール・シュミットは斯かる見解を近代的議会制度一般の思想歴史上の根拠と称して居るが、それが実に全自由主義の理論を支配して居た。吾々はそれをバーク、ベンサム及びジョン・ステュアート・ミルに見ると共に又ギゾー及びバンジャマン・コンスタンに於いても見る。それは近代憲法の成文に於いても認められて居る所で、「当選者ハ各選挙区ノ代議員ニ非ズシテ全国ノ代議員ナリ」、「議員ハ其ノ投票ニ於テ唯自己ノ信念ニ従フベク如何ナル種類又ハ如何ナル者ノ委任又ハ訓令ニモ拘束セラルルコトナシ」といふ意味の規定は、ドイツ諸邦の憲法の千篇一律の規定となった。それはなかんずく総ての政党の拘束、総ての政党の統制を強く否定する趣意を言い表して居るものである。

 

 議会の中に政党の組織の起ることを妨げ又は之を麻痺せしめ又は少くとも之を外部に現はれざらしむる為には、技術的の手段をも缺かなかった。就中それは議会の議事規則に依って行はれ得る。バイエルン及びサクセンに於いては代議員の議席は抽籤に依って定められた。ウユルテンベルヒの第二院は種々の階級の者から成り立って居たが、故参順又は年齢順を以て議席の順序を定めた。同様の定めはサクセン・ワイマール・アイゼナッハ・クーアヘッセン、その他にも行はれた。是が如何なる意味を有するものと思考せられて居たかは、ロベルト・、オールのウユルテンベルヒ国法の一節に「議席の定め方は憲法上決して小さな問題ではなく、それに依って政党が外形上に一団として集まることを妨げ得る。政見を異にする者が入り交じって議席を占めることは、同じ政見の者が多数一団となって居るよりは熱情を誘発する機会が少い。それは又各個の議員がその属する政党の意見又は決議と異なった信念を有って居る場合に、その信念に従って行動することを容易ならしめる」と曰って居るのに依っても知ることが出来る。政党別に依って議席を定めることは、ドイツに於いては1848年以後のことで、漸次それが一般の常則となったけれども、それは決して普ねく総ての議会に行われる法則ではなかった。1872年に至っても、モールは議会に於いて政党所属の議員が堅く所謂フラクチヨン即ち独立に評議を為し多数決を以て参加者を拘束する国体に結びついて居ることは「如何なる方面から見ても有害な悪風で、政治的訓練の不足を証明するものである」と曰って居る。等しく議会内に於ける党派の組織と党派の勢力とを抑制する為の制度として起ったものには、初めフランスに起り次いでドイツの多くの諸邦に採用せられた抽籤を以て議員を数部に分ち、各部をして法律案の審議又は選挙の審査に当らしめる制度を挙げることが出来る。此の制度は形式上は連邦議会にも採用せられ、革命まで維持せられた。議会の会議に於いて予め起草せられた演説を朗読することの禁止も亦同じ趣意に出て居る。議員は本会議の議場に於いてその意見を定めるべきもので、党派の控室において之を定めるべきものではないといふのである。バンジャマン・コンスタンは此の一見些細の事柄を頗る重要視し、二回までも之を詳細な論議の問題とした。

 

 然るに議会制度の発達は次第にその最初の出発点の原則からは遥に遠ざかるに至った。民主的思想が絶えず強く進んで来るに随って、議会の自立性、評議と討論との結果に依る決議の自発性、議員が議会外の勢力より独立なること、政党組織又は議院内各派の支配から自由であることは次第に薄弱となり、遂には全然失はれるに至った。政党組織は内外から議会制度を圧迫した。それは選挙人を支配して次第に之をその網の中に引き入れ、又議会の審議手続をその総ての段階と方向とに於いて支配するに至った。議会外の各地方人民を包括する政党とその議会に於ける分派としての院内各派の連絡は益々強固となった。議会の決議は各派内の評議と決議とに依って予め準備せられ、本会議の討論のみならず時としては委員会に於けるものすらも空虚な形式に過ぎざるに至らしめた。議会の議決は若し一党派で議会の過半数を占めるものが有れば、その党派の決議であり、数党が分立して居れば、政党間の妥協に外ならぬ。代議士はもはや国民の代表者ではなく政党の代表者であって、代議士自らも斯く感じ斯く動いて居る。意見の自由、演説及び投票の自由の如きは殆どあとかたも無い。代議士は啻に自分の選挙せられた選挙人の希望や院外の政党組織に支配せられるのみならず、院内の所属党派の厳格な規律の下に服するもので、その許を受けなければ公の会議に於いて口を開くの自由なく、その演説の内容、その委員会で取るべき態度は凡て院内党派の指揮する所であり、稀なる例外を除いてはその投票も又その指揮に従はねばならぬ。

 

 しかしながら此の発達に対し成文法は初は全然之を無視するの態度を取った。勿論政府の政党に対する公然の敵視ともいうべき態度は現実の政治生活の力の前に降服するの已むなきに至った。或る個々の政党に対しては尚或は敵視の態度を取り、斯かる手段の到底無用なことを自覚するまでは、社会党鎮圧法の如き手段を以てその絶滅を企てたことすらも有ったけれども、政党そのものに対しては最早反対の態度を取り得なかった。反対に政府は自ら政党と種々の関係をもち、政党と相交渉し、政党の上に勢力を及ぼさんとし、特定の政党の支持を受け、遂には政党組織それ自身及び各政党相互の関係の上に或は離間し、或は結合せしむる等の影響を及ぼさんと努めるに至った。しかしながら立法者に取っては最近2-30年前までは政党という観念は全く存在しなかった。「政党」という語は如何なる憲法にも如何なる法律にも之を見るを得ない。議会の議事規則すらも此の時期に於いては政党及び院内各派の存在を認めたものはなかった。イギリスは議会に於ける政党の支配が他の何れの国よりも最も早く発達した国であるが、それですらも、その下院の常規則又は会期規則には、議会の総ての議事の方法が政党、政党の首領、その院内総務に依って定められることに付いて一言の之を示す文字も無い。シドニー・ローは曰く「政府が位置政党の委員会である事実は下院すらも嘗て之を認めたことが無い」と。アメリカ合衆国の議会は今日も尚院内各派を認めない。フランス及ドイツにおいては院内各派は既に久しき前より発達し、熱心に仕事を為し、熱心に委員会組織における議席の公平の分配を求めたのであったが、議事規則に於いては近頃までは全く之を認めず、随って又実際の慣習に於いてはつとに発達して居た各派の代表者から成る各派交渉会をも認めなかった。ドイツの連邦議会は委員会の選任が既に久しき前から各派の手に写ったにも拘らず、尚常に抽籤に依って分たれた各部に於いて委員を選任するものとする空文をその儘固持して居たのである。