あの人達のただひたすら糊塗し続ける作業(議会への手の突っ込み方)などを見ていると、ほんと船橋市民がかわいそうになってきます。

 

 そして何より、人間としては最低のクズだなって思います。

 

 授業でこんなレジュメを教科書から引用され、いろいろと説明を受けました。

 

 

 

 

 長いのでちょっと3回に分けます。(下線は私が引きました)

 

4 違憲立法審査の基準と条例制定の可能性

 (1)違憲立法審査の考え方-司法消極主義とは

 立法は、憲法の規定に抵触することはできない(98条1項)。特に基本的人権については、「公の福祉」に基づく必要最小限度の制限でなければならない。しかし、この憲法適合性、特に「公の福祉」に基づく必要最小限度の制限かどうかについて、誰が判断するかという問題がある。

 

 憲法では、「最高裁判所は、一切の法律、命令、規則又は処分が憲法に適合するかしないかを決定する権限を有する終審裁判所である。」と定めている(81条)。裁判所は、具体的な事件(争訟)に対して法の解釈適用を通じてその解決を図る機関であるが、同時にその判断に必要な範囲で法律その他の規範の憲法適合性を判断する権能を付与されているのである。特別に設けられた憲法裁判所が、具体的な争訟と関係なく抽象的に違憲審査を行う抽象的違憲審査制に対して、通常の裁判所が具体的な争訟事件を裁判する際に、その解決に必要な限度で法律等の違憲審査を行う、このような仕組みは付随的違憲審査制とよばれる(たとえば芦部2011 : 368)。

 

 この違憲審査制の運用をめぐって、司法消極主義と司法積極主義の考え方がある。司法消極主義とは、立法権の立法判断を重視し、司法府は違憲審査権をできるだけ自己抑制的に行使すべきだと考えるアプローチである。これに対して司法積極主義とは、司法府の人権保障の機能を重視し、司法府は違憲審査権を積極的に行使すべきだと考えるアプローチである。このいずれが日本の憲法の原理に適合しているのだろうか。

 

 まず、憲法判断をするか否かの「間口」の段階では、憲法判断はできるだけ回避すべきである。なぜなら、①司法権はもともと具体的な争訟事件の解決を目的としているし、②憲法判断は経験的素材に基づき熟慮されたものでなければならないし、③民主主義のもとでは国民代表の議会の判断をできるだけ尊重すべきだからである。この点では司法消極主義の考え方が妥当する。米国でも、たとえば、憲法判断をしなくても事件を処理できる場合には憲法判断を行わない、法律の合憲性に疑いがあったとしても、その問題を回避できるような法律解釈が可能かどうかを確認すべきである等の憲法判断回避の準則(ブランダイス・ルール)が提示されており、日本でも参考にされている。

 

 一方、憲法判断をする場合の「実体判断」の段階では、司法が個人や政治的少数者の人権を保障するとともに、立憲民主主義の維持保全に原理面から寄与するために、違憲判断に消極的であってはならないと考えられる(佐藤幸1990 :305-306)。この点では、法律の違憲性については複雑かつ政治的な要請も考慮する必要があり、議会の制定した法律は明白な誤りがある場合に限って違憲と判断されるべきであるという考え方もある(明白性の原則など)。しかし、多数者の意思に基づく議会の判断では、政治的少数者の人権は十分に反映していない可能性があるし、特に表現の自由等に対する制限立法など民主的過程に瑕疵が生ずる場合には、民主的過程を回復するためにも、司法権が積極的に違憲判断に踏み込む必要がある(後述の二重の基準を参照)。したがって、実体判断については単純に司法消極主義を適用すべきではないと考えられる。

 

 (2)違憲立法審査の基準-二重の基準

 では、違憲審査についてはどのような基準で判断すべきだろうか。この点については、1970年代から米国の違憲立法審査の基準が紹介され、憲法学の大きなテーマになってきたし、一定の審査基準は判例にも取り入れられている。これらの審査基準は条例の合憲性についても適用されるものであり、条例制定にあたっては、これらの審査基準に基づいて合憲性を検討し、確認しておく必要がある。

 この審査基準の基本となる考え方は、財産権や経済的自由に比べて、表現の自由などの精神的自由は、選挙などの民主的過程を支えるものであり、これが制限されると立法府や行政府を支えるプロセス・正統性にゆがみが生じる可能性があるため、違憲立法審査においても、より厳しい審査が求められるという考え方である。これが二重の基準である。自治体の実務では、表現の自由よりも財産権の規制になることをおそれる傾向があるが、憲法理論では逆なのである。

 もっとも、表現の自由の制限立法に関する判例をみるかぎり、現在の裁判所(特に最高裁)が二重の基準を採用しているとはいい切れない部分がある。後述のとおり、最高裁は、経済的自由の制限立法について「厳格な合理性の基準」を当てはめて違憲判断を下す一方、精神的自由の制限立法について規定の明確性について緩やかな判断をしたり、「合理的関連性の基準」を適用したりして、厳しい審査を行わない傾向がある。これに対しては、学説から強い批判が投げかけられている。しかし、条例制定については、違憲性の疑いをかけられることのないよう学説にも配慮すべきであること、特に民主的過程の保全については、住民自治の原理を重視する自治体として積極的に擁護・保全すべきことから、二重の基準を基本として、合憲性について十分に吟味する必要がある。

 なお、これらの審査基準は、裁判所が立法機関(議会)の裁量をどこまで許容するかの基準であり、経済的自由だから価値が低いとか、過度の制限も許されるというものではないことに注意を要する。

 日本国憲法の人権のカタログにこの基準を当てはめると、図表9-1のとおりである。以下、それぞれの内容を簡潔に説明しておこう。

 

 (3)類型別の合憲性判断基準と条例への適用

 ① 経済的自由の積極目的規制

 第1に、経済的自由の積極目的による規制(政策的・外在的な目的のための規制)については、規制の目的と手段が著しく不合理でなければ合憲とする合理性の基準や、法が著しく不合理であることが明白でないかぎり合憲とする明白性の原則が適用される。

 たとえば、小売市場距離制限事件判決(最判昭47・11・22刑集26巻9号586頁)は、経済活動の規制について消極目的の規制のほかに積極目的の規制をなし得ることを認めたうえで、積極目的の規制については当該規制が著しく不合理であることが明白である場合に限って違憲とし、「明白の原則」を適用し、小売市場の開設許可に一定の距離以上離れていることを求める小売商業調整特別措置法の規制について、経済的基盤の弱い小売商を過当競争による共倒れから保護するという積極目的の規制と認定し、合憲とした。また、公衆浴場距離制限事件判決(最判平元・1・20刑集43巻1号1頁)は、公衆浴場の開設に開する距離制限を定める公衆浴場法等の規制について、公衆浴場に依存する住民の需要に応えてこれを維持・確保するために経営の安定化を図る積極的・社会経済政策的な規制と捉えて、「明白の原則」を適用して合憲とした。

 条例に関する判例として、東郷町ホテル等建築適正化条例事件判決(名古屋地判平17・5・26判例ID28135084)では、ホテル及び旅館の構造等について所定の基準を設け、これに適合しない場合には町長がその建築に同意しないことを定める条例について、憲法22条の「公共の福祉」による制約は、社会国家的見地からする積極的、政策的なものであっても、その規制の程度がその目的を達するために「合理的な関連性」を有する範囲内であるかぎり許容されるとし、ラブホテルの生活環境等への悪影響を指摘したうえで、同条例には相応の合理性があり、規制の手法・内容も比例原則に反するとはいえないとして、合憲とした。前述の「合理性の基準」を採用したものといえよう。

 なお、飯盛町旅館建築規制条例事件判決(福岡高判昭58・3・7判タ498号192頁)では、旅館業法が旅館業に対する規制をこの程度にとどめたのは、職業選択の自由等を考慮したものと解されるから、「旅館業法よりも強度の規制を行うには、それに相応する合理性、すなわち、これを行う必要性が存在し、かつ、規制手段が右必要性に比例した相当なもの」でなければならず、これが肯定されない場合には、「比例の原則に反し、旅館業法の趣旨に背馳する」とし、本件条例を違法とした。この判決は、法律との関係が問題となった事例だが、その判断にあたり人権保障との関係を考慮し、規制の必要性と規制手段の相当性を求めており、憲法的な視点を含む判決といえる。

 このほか、この類型に属する条例としては、景観保全のために建築物を規制する条例、計画的なまちづくりのために開発行為を規制する条例、青少年の健全育成のためにパチンコ店等の風俗店を規制する条例などが考えられる。これらは、建築基準法、都市計画法等の個別法への抵触も問題となるが(第11章4参照)、憲法との関係では条例制定権者の裁量が比較的広く認められるといえる。

 ② 経済的自由の消極目的規制

 第2に、経済的自由の消極目的による規制(当該行為がもたらす問題の発生を防止するための規制)については、他のより緩やかな規制では目的を十分達成できない場合にかぎり合憲とする厳格な合理性の基準が適用される。

 たとえば、薬局距離制限事件判決(最判昭50・4・30民集29巻4号572頁)は、薬局の開設に適正配置を求める旧薬事法等の規制について、許可制のような強力な制限については、公共の利益のために必要かつ合理的な措置であることを要し、またそれが消極目的の規制については、よりゆるやかな規制では目的を十分達成できないことを要するとしたうえで、本件は国民の生命・健康に対する危険の防止という消極目的の規制であると認定し、規制の理由とされる、薬局等の偏在→競争激化→一部薬局等の経営の不安定→不良医薬品の供給等の危険という事由は、規制の必要性・合理性を肯定するに足りないとし、かつこの目的はよりゆるやかな規制手段によっても達成できるとして、違憲とした。

 条例に開する判例としては、奈良県ため他条例事件判決(最判昭38・6・26刑集17巻5号521頁)がある。ため池の破損、決かい等による災害を防止するため、ため他の堤とうに農作物等を植える行為等を規制する条例について、ため他の破損、決かいの原因となる堤とうの使用行為は、憲法・民法の保障する財産権の行使のらち外にあり、これらの行為を条例をもって禁止、処罰しても憲法等に抵触するものではないとした。この判例では、「財産権の行使のらち外にある」としたため、明確な判断をしなかったとも読めるが、結論的には条例の合憲性を認めている(学説では議会制定法であれば財産権の規制は可能と解しており、これが妥当と解される)。また、古い判例でもあり、審査基準に開する判断は示していない。

 このほか、この類型に属する判例としては、クリーニング等の衛生維持のために営業方法等を制限する条例などが考えられる。

 ③ 精神的自由の外形的規制

 第3に、精神的自由の外形的規制(表現行為の時・場所・方法に関する制限)については、まず規定の仕方自体について明確性の基準が適用されるし(この中でも、漠然性ゆえに無効の基準と過度の広汎性ゆえに無効の基準がある)、その規制内容については、より制限的でない手段が他に存在しない場合にかぎり合憲とするLRAの法理が適用される。

 もっとも、最高裁は、こうした基準を厳格に適用していない。

 まず「明確性の基準」については、徳島市公安条例事件判決(最判昭50・9・10刑集29巻8号489頁)は、条例の「交通秩序を維持すること」という許可条件が下級審では不明確とされたのに対して、通常の判断能力を有する一般人であれば、だ行進等の行為がこれに当たるものと容易に想到することができるとして、不明確とはいえないとした。

 最近の判例でも、広島市暴走族追放条例事件判決(最判平19・9・18刑集61巻6号601頁)は、同条例が暴走族による集会を規制するとともに、「暴走族」を「暴走行為をすることを目的として結成された集団又は公共の場所において、公衆に不安若しくは恐怖を覚えさせるような特異な服装若しくは集団名を表示した服装で、い集、集会若しくは示威行為を行う集団」と定義しているのに対して、条例全体の趣旨や施行規則の規定等を総合すれば、規制対象は本来の暴走族のほか、「このような暴走族に類似した社会通念上これと同視することができる集団」に限られると解して、合憲とした。規定の明確性について柔軟な判断をしているといえる。

 次に、「LRAの法理」については、最高裁はこの基準を採用せず、目的と手段の間に抽象的な関連性があればよいという合理的関連性の基準を用いている。たとえば、大阪市屋外広告物条例事件判決(最判昭43・12・18刑集22巻13号1549頁)は、美観風致の維持と公衆に対する危害の防止という目的を正当としたうえで、「この程度の規制は、公共の福祉のため、表現の自由に対し許された必要且つ合理的な制限と解することができる」として、規制手段の妥当性を具体的に検討しないまま合憲性を認めた。大分県屋外広告物条例事件判決(最判昭62・3・3刑集41巻2号15頁)も同様の判断を示している。

 また、東京都公安条例事件判決(最判昭35・7・20刑集14巻9号1243頁)は、集団行動による思想等の表現は、内外からの刺激、せん動等によって容易に動員され得るものであり、昂奮、激昂により暴徒と化し、実力によって法と秩序を蹂躪するような事態に発展する危険があるとし(いわゆる暴徒化論)、いわゆる公安条例で、不測の事態に備え法と秩序を維持するに必要かつ最小限度の措置を事前に講ずることはやむを得ないとした。「LRAの法理」などで求められる具体的な検討は行われていない。

 国家公務員法に基づく公務員の政治活動の自由の制限についても、下級審判決は、「LRAの法理」を用いて違憲としたのに対して、最高裁は、当該制限が「合理的で必要やむをえない限度にとどまるものである限り、憲法の許容するところである」とし、「合理的関連性の基準」を適用して合憲と判断した(猿払事件判決・最判昭49・11・6刑集28巻9号393頁)。これらの判決は、学説から強い批判を受けている。

 ほかにも、信仰の自由との関係が問題になった事例として、京都市古都保存協力税条例事件判決(京都地判昭59・3・30行集35巻3号353頁)がある。この判決は、京都市内の社寺等に所在する有形文化財の観賞者に課税する条例について、「本件条例は、文化財の観賞に伴う信仰行為、ひいては観賞者個人の宗数的信仰の自由を規律制限する趣旨や目的で本税を課すものでないことは明らかであり、また、右信仰行為に抑止効果を及ぼし、これを結果的に制限するものでもない。」とし、合憲とした。

 このように、精神的自由の外形的規制について、判例はかなり柔軟・寛容な姿勢を示しており、「明確性の基準」「LRAの基準」等の基準を採用しないか、採用してもゆるやかにしか適用していない。しかし、学説ではこうした姿勢に対して批判が強い。また、精神的自由は国政だけでなく地方政治の民主的過程を機能させるためにも重要なものである。とすれば、自治体がこうした内容の条例を制定する場合には、特に慎重な配慮を行い、「明確性の基準」「LRAの基準」等の基準によって検討・判断すべきと考えられる。

 ④ 精神的自由の内容的規制

 第4に、精神的自由の内容に関する制限については、表現行為を事前に抑制することは許されないという事前抑制の理論と、事後規制であっても、前述の明確性の基準のほか明白かつ現在の危険の基準が適用される。このうち事前抑制の理論は、「検閲」にあたる場合は当然に許されないが(憲法21条2項)、「検閲」にあたらなくても表現行為の事前抑制は原則として認められないとするものである。

 もっとも、ここでも最高裁は比較的柔軟な解釈を示している。たとえば事前抑制に関しては、税関検査事件判決(最判昭59・12・12民集38巻12号1308頁)は、関税定率法に基づく税関検査は、関税徴収手続に付随して行われるものであること等から、思想内容等の表現物を網羅的一般的に審査する「検閲」にはあたらず、また、「風俗を書すべき書籍、図書」等の輸入制限はわいせつな書籍、図画等を制限するものと限定解釈できるため、明確性に欠けるものではないと判示した。また、教科書検定について最高裁(最判平5・3・16民集47巻5号3483頁)は、不合格となった原稿を一般の図書として出版することは禁止されていないことを理由として、検定の「検閲」性を否定するとともに、本件検定による表現の自由の制限は合理的で必要やむを得ない限度のものとし、合憲とした。これらについては学説の批判が強い。

 条例に関する判例として、岐阜県青少年保護条例事件判決(最判平元・9・19刑集43巻8号785頁)は、ポルノ写真・刊行物等を「有害図書」として指定し、青少年に販売・配布・貸付等することや自動販売機に収納することを禁止する条例について、有害図書が青少年の健全な育成に有害であることは社会共通の認識であること等を理由として、こうした規制は、「青少年の健全な育成を阻害する有害環境を浄化するための規制に伴う必要やむをえない制約である」とし、合憲とした。また、同判決は、「有害図書」の指定と販売・配布・貸付等を規制する条例について、「検閲」にあたらないと判断するとともに、「必要やむをえない制約」であり、合憲であると判断した。これらの判決について、学説では、「有害図書」の指定が明確な基準で行われない場合は萎縮効果を生むため事前抑制と同視すべきこと、「有害図書」と青少年非行化との因果関係について立法事実の裏付けが乏しいことが指摘されている。

 また、「明白かつ現在の危険の基準」については、下級審ではこれを適用する判例があるものの、最高裁では正面からこれを認めた判決はなく、その趣旨を採用した判決(泉佐野市民会館事件判決・最判平7・3・7民集49巻3号687頁)があるにとどまっている。

 このように、表現の自由の内容的規制についても、判例はかなり柔軟な姿勢を示している。すなわち、「事前抑制の理論」を限定的に解釈し、「明確性の基準」の適用もゆるやかであり、「明白かつ現在の危険の基準」については明確には採用していない。しかし、自治体が条例を制定する場合には、③の場合と同様に自治における表現の自由の重要性にかんがみて、学説の示す基準に即して慎重な検討・審査を行うべきと考えられる。

 なお、条例の合憲性に閲する判例をまとめると、章末の図表9-2のとおりである。