ふむふむ。と、話を聞いていました。

 

 PTAトラブルってひょっとして多い?と瞬間感じました。

 

 「そういう時期だよなあ~」とも。

 

 どういう時期か?って?

 

 制度廃止を考えるべきではということです。そもそもPTA組織の制度ってなんだということになりますが、そこをわかって活動をしている方は少ないのではないでしょうか?

 

 私に相談をしてきた方も、あまり詳しくわかっている感じではありませんでした。以前にもブログに書かせていただいたような記憶もありますが、こん顔の相談を受け、さすがにもう無理でしょう。というのが率直な感想です。

 

 私は私立幼稚園のPTA活動をしていました。自己弁護をするつもりはありませんが、これは、私立学校特有の問題がありますから、議員という立場でかつ役員という立場を取ろうと思い、努力をしてまいりました。

 

 さて、義務教育を取り巻く様々な法律や仕組みを考えていくと、その時代に即したものに変化をさせています。

 

 一方、聞いた話では、PTAは旧態のままのところや、変化へ踏み出せない中途半端なものなど、おおよそ現代の組織とは思えないもののようです。

 

 今回の相談は、「強制的」に役員(の割り振り)がありながら、「あんたどうせ出てこないでしょ」くらいのメールをもらった。というものでした。

 

 まあ、簡単に言えば、当事者同士で解決してよ。の世界ですが、「ん?ちょっと待てよ?」と立ち止まって、そもそも論や、現状把握をしてみたらどうだろう?とか、冷静に見始めると「?」「??」となりました。

 

 なぜなら、結構以前ですが、「卒業記念品パイプ椅子事件」がありました。学校予算で本来市が購入すべきものを保護者が負担する。ということが、市内全校で行われているようなことがわかり、「クソミソ一緒」状態の船橋市内の義務教育学校。

 

 さてPTAってなんざんしょ? Parent Teacher Associationですが、どうも違うって感じ。

 

 そりゃそうですよね。私が子供の頃はまさに父が市議会議員で、PTA活動に大きく関わっておりました。

 

 当時は教育環境が決して整っているわけではなく、Parents Teachersが一体となって、常に協議、協力していました。いまどきでいうと「協働」でしょうかね。

 

 もっとも先生方も熱かったですしね。給料安いのに一生懸命働いていた感じ。農家の保護者から野菜などが届いたり、私の父も頂き物のお酒を提供したりしていた記憶がありますね。

 

 何かがあれば地域が協力するし、どちらかというと「和気藹々」。

 

 それがなんか今は違う。

 

 そりゃそうだ。まさに地域には自営業者や農家の人たちで、そのお節介焼きが、お節介を焼くことに喜びを感じ、楽しんでいましたし、都内への勤め人の奥様方は特段働くこともなく、まさにその自営業や農家のおっさんや奥さんの中におっかなびっくりで活動をしていましたね。(これあくまでも三山小学区、二宮中学区の昭和40~50年代の話ね)

 

 そこに、60年安保、70年安保にかぶれたような勢力が入り込もうとして大変だったりですが、我が二宮中は、教員の組合加盟なしだったはず。なので「かぶれ」が入り込む余地はなかった気がします。詳しくは現教育長にお尋ねください。

 

 いずれにしても、学校と保護者が良い意味で一体になっていた感がありました。

 

 ところが今はどうでしょうか?

 

 そもそも待機児童が、待機児童がっていうことは、保護者の共働きや、子供の面倒を見る時間がない家庭がめちゃくちゃ多いよということです。

 

 ということは自ずとわかるのですが、PTA活動をできる保護者は限られて来る。ということです。

 

 というよりも、PTAの役割というのは終わっているのではないでしょうか?少なくとも公立義務教育学校においては。

 

 例えば、学校、教諭などと意思疎通がはかれていない、些細、瑣末なことでも学校へ苦情を持ち込む保護者が増えているわけですが、それらの対応窓口にPTAがなるというような話ならまだしも、そんなことはできるはずもなく、いわゆるモンスターペアレンツは増加するばかり。

 

 なんともいや~な現実があります。

 

 校長や教頭などは、ただでさえわからず屋のモンスターペアレンツが多いのに、これまたPTAが理屈にならない理屈でよけいなおせっかいをしてくれるくらいなら、無い方がいいよ。ってなるのではないでしょうか?

 

 全部が全部PTAがダメだなんて言いません。

 

 しかし、個人情報の取り扱いや、子供の安心、安全、健康とはおおよそ違う世界の話を議論している姿など見たくも聞きたくも無いでしょう。

 

 今、立ち止まって、「PTAのあるべき姿」あるいは廃止論を議論し始める時期に来ているのでは強く感じております。