追加議案質疑について(3)

 追加の議案質疑を考えるにあたって、非常に興味深い、関連すると思われる雑誌の特集記事がありました。

 

 完全なる転載になってしまいますがお許しいただければと考えています。2回くらいにまずは分けて書きます。

 

 月刊 ガバナンス No.182  2016 6月号 ぎょうせい刊より

 

 

 

 

 今回の郷土資料館の追加工事の問題は、この地方自治体の縦割りがある意味では原因ではないかと考えているのです。

 

 かねてから、私は横串をさせと言ってきているにも関わらず、我関せずの職員が多数おりましてアホかと思いますね。

 

 これもいつも書いていますが、誰のために仕事をしているかの視点がまったく違うところに行っているからです。

 

 どういうことかをこの記事を読みながら考えてみたいと思います。

 

地方自治体に特有の縦割りは何か

 

神戸学院大学現代社会学部教授中野雅至

 

 中央官庁だけでなく、地方自治体にもセクショナリズムは存在する。これは民間企業も同様である。所属部署によって思考・行動する以上、組織あるところにセクショナリズムが存在すると言っても間違いではないだろう。違いはセクショナリズムの性質やその程度などである。本稿では地方自治体に特有のセクショナリズムの問題について考えるとともに、セクショナリズムを和らげるための方策を提案することとしたい。

 

縦割り行政は中央官庁だけに存在するものか

 

 「縦割り行政(セクショナリズム)は日本の官僚制の病弊である」というのは、行政学で最初に習う事柄であるが、実際に中央官庁で働いた経験から言うと、病弊以前の問題というのが実感である。良いも悪いもなく、セクショナリズムが仕事の大前提になっている。大変革でもない限り、国家公務員が国全体のことを考えて日々の仕事をするなど考えられない。

 

 その一方で、セクショナリズムは中央官庁にだけ見られる現象だろうか。筆者は新潟県庁に3年間出向した経験があるが、地方自治体にもセクショナリズムは存在する。これは民間企業も同様である。所属部署によって思考・行動する以上、組織あるところにセクショナリズムが存在すると言っても間違いではないだろう。違いはと言えば、セクショナリズムの性質やその程度などである。

 

 セクショナリズムの性質やその程度とあります。私は中央官庁のセクショナリズムとは明らかに違うと思います。

 

 本稿では中央官庁のセクショナリズムについてこれまでの通説などを振り返った上で、地方自治体に特有のセクショナリズムの問題について考え、最後にセクショナリズムを和らげるための方策を提案することとしたい。

 

セクショナリズムの善悪とその種類の大前提

 

 中央官庁のセクショナリズムについては学術的な研究もあれば、その内幕を描いた有名なもの(今井1953、日本の官僚研究会1971)もあり、様々な見解が示されてきた。いくつか視点を絞って示してみよう。

 

 まず、セクショナリズムが良いか悪いかである。一般的にはこれを否定的に捉える研究が多数派である。先駆的研究として辻(1969)があるが、多くの先行研究が積み重ねられてきたことは言うまでもない。その一方で、セクショナリズムを肯定的に捉える研究(行政管理研究センター1989)もあり、ここでは官庁同士の切磋琢磨が新たな政策を生み出すことなどが指摘されている。

 

 なぜセクショナリズムは否定的に論じられるのだろうか。「省益あって国益なし」という言葉に表されるように、各省(もっと言えば、各省・各局・各課)が自らの権限や利益を追い求める結果、全体の利益が損なわれるというのが最もオーソドックスな見解である。

 

 この下線部分ですが、国はそうかもしれませんが、地方違うのではないかというのが私の考え方です。

 

 次に、セクショナリズムの種類である。現実に起こっているセクショナリズムを漏れなく拾うためにはどういう分類がいいのか。これも様々な見方・考え方がある。セクショナリズムに限定することなく省庁間手続きを機能的に捉える城山(1999)のような見方ができる一方で、ジャーナリズムを中心にこれまで一般的に広く取り上げられてきたのが省庁間の権限争いである。具体的に言えば、各省設置法に示されている所管事項を巡る権限争いである。少し古い事例でよく取り上げられるのは情報通信産業を巡る旧通産省と旧郵政省の争いである。

 

 こういうことであれば、僕のストレスは溜まらないのではないかと思うのです。なぜならば仕事に前向きであることが明白ですよね。

 

 三つ目に、セクショナリズムの形態である。権限争いの具体的な態様と言い換えてもいい。セクショナリズムが各省設置法上の権限争いに起因していることを考えると、「当該省庁の権限を侵犯していないかどうか」という相互チェックのようなものが中心になる一方で、各省設置法上に規定されていない新たな業界・権限を奪い合うようなものの二つが中心になる。

 

前述の部分と重なりますが、仕事に前向きであるのです。

 

 四つ目がセクショナリズムの根深さである。セクショナリズムが各省設置法上の権限争いに起因するとしても、その根深さについては表面的なことだけでは説明できないことも多い。

 

 例えば、セクショナリズムは各省内部だけでなく外部まで巻き込んでしまうことである。業を所管している省・局・課の場合、役所の利益だけでなく業界・それに連なる族議員などまで巻き込んでしまうため、役所だけの一存で意思決定できないケースも多い。時間が経過すればするほど、その結束は強くなり簡単には崩せなくなる。村上(1992)のいう「仕切られた競争」、青木(1999)のいう「仕切られた多元主義」がそれである。

 

 いや、実はこの業界、族議員まで巻き込んでというところが私の目指す最終形なのですが、なかなか大変です。

 

 業界には相談しない。議会のいうことは聞くふりをしてまったく聞かないのが船橋市役所です。いやいや、優秀でおまかせしておいて大丈夫なら、議会のいうことなんて聞かなくても、業界に相談しなくても結構ですよ。だけど、どれだけの苦情をもらいながら行政運営をしているんでしょうか?あきれてものも言えないって感じのことだらけです。

 

 各省の人材育成や組織文化の強さも指摘されねばならない。国家公務員は各省で採用され育成されていくため、政府全体のことを考えるよりは各省のことを真っ先に考えるようになるし、各省の組織文化に大きな影響を受けるため、政府全体のことを考えて行動するという発想にはなりにくい。

 

 私事で恐縮だが、厚生労働省に入省した新人の頃の仕事の教えでよく覚えているのは、「他省庁との権限争いでは極限までおりない」ということと「どの資料をマスコミなどの外部に出すかどうかは上司の許しを得て慎重に判断する」ということの二つだった。それくらいセクショナリズムと情報非公開というのは中央官庁にDNAとして染みついている。

 

 「他省庁との権限争いでは極限までおりない」「どの資料をマスコミなどの外部に出すかどうかは上司の許しを得て慎重に判断する」というのは、ちょっと笑えますよね。

 

 「他省庁との権限争いは極限までおりない」ということを馬鹿らしく思っている官僚は大多数だと思われる。実際、内閣官房行政改革推進事務局の調査(2001)においても、若手職員が現状に対して持っている不満の1つとして、省庁間の調整に大半の時間が取られているということがあげられている。

 

 大多数が矛盾や不合理性を感じている。それでも止められないのである。ここにセクショナリズムの根深さがある。