父が亡くなり、船橋市議会の歴史について語る方々も減ってきました。

更には、父がお世話になった藤代七郎市長のお孫さんが議員になる時代になってきました。父が勲章を賜った時に記した記録を掲載させていただき、私の父の側から見た船橋市議会や政界についてを残させていただきます。

 ご参考までに。ちなみにこれを書いた時、私は市議会議員2年生でした。

 

議員と議会-今昔物語

 

 今の議員と昔の議員との違いは年齢ではないでしょうか。私が第1期生の時は公明党の本間清吉議員が1番若く27歳で独身でした。

 

 独身で議席を得たのは最初でないかと言われました。38歳の私も若い方で40歳以下が4人でした。そして50歳以上のベテラン議員がほとんどでした。

 

 当時は昼食は議会事務局から出ていました。今は違いますが、確か、金子幸作副議長の時です。昼食はいつもテンプラそばと決まっていました。長谷川、征矢野毅議員始め若い働き盛りの年代にとってテンプラそば一杯ではもちません。当時は質問者も多く、定刻1時に議会が始まると終わるのはいつも夜の9時、10時でした。腹が減ってたまりません。そこで金子副議長に昼食はドンブリものにと申込んだことがあります。

私は今72歳ですが、今はテンプラそばでももちますが年齢の差だと思います。

 

 保守系の議員さん達の顔ぶれを見ますと議長になった人でも藤代七郎、藤代正路、竹之内秀胤、伊藤栄太郎氏等々各地区で色々な役職、あるいは歴代の庄屋、名主等その地域での有力者が推されて議員になったのではないでしょうか。

 

 皆、旦那肌で割合に鷹揚な感じでした。社会経験も豊富で良識がありました。私白身、教えられる事が多く、大変勉強になりました。一方、野党の共産党は戦前からの農民党(共産党)の川崎忠治議員、津賀俊議員、昭和50年より今をときめく共産党委員長、志位代議士の父親が議員として当選してきました。社会党は国労出身の菅井長七議員を始め諸団体の代表として当選し議席を得ていました。

 

 このころに公明党も5名になりました。この昭和42年は保守系新人も10名当選して来ました。船橋市議会は過渡期であったようです。

 

 当時は大変おおらかな時代でした。当選してまもなく視察に行くことになりました。船橋駅集合との事で出掛けて行きました。ところが船橋駅へ行くと先輩議員が視察に行かずに解散と言って視察費をくれました。翌日、私は地区の仕事が沢山ありましたので市役所へ出掛けました。ところが議会事務局員が飛んで来ました。そして視察になっているので帰ってくださいとのことでした。当時はカラ出張が行われていたのです。

 

 そこで民主研政会は議会における過去の悪習慣はなくすべきと、刷新に全員が燃えました。我が会派は専業的な政治家志望が強く、各員将来の船橋を背負うような気構えを持っていました。私は当時習志野自衛隊内に売店を持っておりましたので、よく招集がかかりましたが、出席率のよい方でありませんでした。

 

 三山に関する要望が多く、市政についてはあまり関心がありませんでした。それと同時に年齢が会派の中で若く、派閥が違うこともあり少し異質であったのかもしれません。

 

 私は1期4年間は議会について、議会図書室より本を借り出してよく勉強しました。特に議会内で色々な問題が生じた時の判例集はよく読みました。

 

 特に。“自治読本”は大いに参考になり、後にも大変役立ちました。2期目の昭和46年4月の選挙で、保守系で元気のよい議員さんが出てきました。

 

 田中昭一氏(前衆議院議員)を初めとする新政会の人たちです。この人たちも当選すると新人だけ11名で会派を組みました。自民党で有名な浜田幸一先生たちの青嵐会のメンバーのような感じがしました。北海道の金魚鉢事件が有名です。

 

 ある時、視察に行き、地元でトラブルがあったそうです。その勢いで旅館へ入り部屋に案内されたが、旅館から誰も出てこなくて困ったとの話を聞いたことがあります。1人は丸坊主で帽子をかぶり、それに皆特長のある議員さんでした。旅館への通知は新政会でしたが、旅館の方は新政会(あらまさかい)と読み暴力団関係と誤解したそうです。案内された女中さんが茶を運んでくれたのはよいのですが誰も旅館の人が出てこなくて困ったそうです。多分、茶を運んで来た女中さんの顔をみて茶目気のある議員さんが網走刑務所を出て来たような話しをしたとのことでした。なにしろ元気のよい議員集団でした。この会派から3期目50年には県議2人を同時に出しているのだから大したものです。