父が亡くなり、船橋市議会の歴史について語る方々も減ってきました。

更には、父がお世話になった藤代七郎市長のお孫さんが議員になる時代になってきました。父が勲章を賜った時に記した記録を掲載させていただき、私の父の側から見た船橋市議会や政界についてを残させていただきます。

 ご参考までに。ちなみにこれを書いた時、私は市議会議員2年生でした。


選挙の最強集団田中軍団と、政治家・田中昭一の魅力


 船橋の政治を語るとき、この人の名前は避けて通れません。元衆議院議員田中昭一さんとその後援会です。いつごろから名付けられたかは定かではありませんが船橋の政局が動く度に注目の的となるのです。


 私は昭和42年4月の統一地方選挙で初当選し、田中は昭和46年に法典地区から4,744票でトップ当選して来ました。2期8年市議会議員を勤め、昭和50年4月の県会議員選挙で2万1,412票の3位で藤谷浩と共に当選しました。


 昭和54年4月の県議会選では、2万6,356票で断然のトップ当選。この時は自由民主党公認でした。続いて昭和58年4月もトップ当選。昭和62年4月の選挙は3位で当選。この時の選挙は保守7人が立候補し、5人が落選しました。保守系の当選者は田中昭一、藤代孝七(現市長)でした。50年4月より昭和61年までの県議選で連続当選は田中だけです。このように、昭和46年の市議選のトップ当選から常に上位当選し、昭和62年の保守乱立の中でも田中軍団は健在でした。


 昭和56年6月の真夏、藤代七郎市長の病気による退任で、市長選挙が行われました。後任は藤代市長の信頼が厚かった近藤一夫助役が有力でした。始関伊平、安藤信吉、佐藤佐平等が出馬を薦めましたが近藤助役は健康を理由に辞退しました。


 その様な動きの中で市議現職の大塚保夫が名乗りをあげました。大塚は昭和42年保守系新人11人の当選者で新人グループの研政会を結成しましたが入りませんでした。研政会が大塚を支持しないのは渡辺三郎市長、川島正次郎派であり、大塚は臼井、藤代派であったからだと思います。


 従いまして、大塚が立候補の意思を示しても推薦する雰囲気ではありません。市長候補を擁立する別の動きがありました。第三の候補を探しているグループです。その一人、県議の松本正二が大橋和夫を船橋の市長候補として持ってきました。大橋は自治省官僚であり、県教育長でもありました。社会党の推薦で知事選に立候補し敗れたので、社会党の松本はその処遇を考えたのだと思います。私は臼井と大塚の関係、また、自民党公認なので党員の私は自民党船橋支部長の田中と共に大塚を応援しました。田中と共に宣伝カーにも乗りました。この選挙は大橋が4万8,000票、大塚3万1,000票で敗れました。


 大橋が市長に就任しましたが、その時の市議会議長は私でした。4年間大橋市長と共に市政を進めていました。大橋が昭和60年7月、2期目に挑戦するときには大橋市長の実績と行政手腕を認め、多くの市会議員と共に大橋市長を応援しました。田中は自由民主党船橋支部長で、大橋に対抗する市長候補として前県議会議員大野弘忠をぶつけてきました。


 大橋の選対としては自民党の推薦を貰う事が先決と考え、県連へ出す推薦申請文を作り、市議会議員の連名の印もらうのに真夜中までかかり、田中に先を越されぬように藤谷県議と数人で自民党県連の元老吉原鉄治に会い大橋に推薦状を出すようにお願いしました。吉原は社会党公認を取らない条件で大野にも公認は出さない事を約束しました。私は自民党支部新聞「自由人」で散々たたかれました。本当に田中とは昨日の友は今日の敵でした。結果は大橋8万7千、大野4万5千でした。


 しかし、田中には大変お世話になったことがあります。衆議院議員臼井日出男の選挙でのときです。強力な保守3人が立候補しました昭和61年の選挙だと記憶しております。臼井は船橋の票数により当落が決まると言われていました。臼井にとっては正念場でした。選対会議は極めて厳しい票読みでした。当時、臼井の選対委員長は県会議員の藤谷浩です。注目の的は田中がいつ、どこに動くのか情勢分析の最大の関心事でした。そして田中軍団の応援なしには、船橋では勝てないとの結論に達しました。


 田中を迎えるに臼井事務所のどこの席に座ってもらうかでした。すでに決定した藤谷に選対委員長の席を退き副委員長に、田中を選対委員長にとの結論です。藤谷には気の毒でした。臼井選対の中心人物の田中と親しい染井一郎が、「俺が田中に頼んでみるよ」と引き受けてくれました。


 私は藤谷県議を八千代の江戸寿司へ三宝の岩佐社長と共に呼んで話し合いました。田中が臼井事務所へ入り選対委員長になると田中の人間的な魅力と力によって藤谷の票を持っていかれてもよいか、藤谷に尋ねました。藤谷は臼井が田中に頼むことにより選挙が勝つならそれでよいと言ってくれました。この時の選挙の票が臼井が船橋で得票した最高でした。田中軍団の力をみました。


 私は田中が衆議院へ出馬したときには田中を応援しました。県議選のときからいつも陣中見舞いに行きますと選挙事務所は活気にあふれ、いつも大勢の応援者がいます。田中選対の役員を皆知っています。ある時は味方、ある時は敵になったのですから。今田中が長い政治生活を終えると共に田中軍団が解散されました。もうこのような強力な選挙母体は船橋には出来ないと思います。今少し淋しさを込めて私から見た田中軍団を書いてみようと思います。


 悪源太と言うのは昔の有名な武将の名前です。この「悪」は、「力強い」事を意味したそうです。田中は正に悪田中と言っても過言ではないでしょう。前述した市長選でも度々対立候補を出してくる。結果がどうあろうと、「この野郎」と思ったらぶつかっていきます。これだけのエネルギーを持った政治家はいません。敵に回したら本当にこわいと思います。庶民的な笑顔で市民に接するときと、こわもてで業者に接する面、そして機を見るに敏、そして田中角栄ばりの弁舌。時によっては心憎いばかりの心配り。加えて物量作戦。しかし私は田中の最大の魅力は寛大さにあるのではないかと思います。あるいは度量の大きさではないかと思います。


 これまでに私は、田中のことを裏切った、信用を失うような政治家を沢山見てきました。しかしあえてとがめず寄ってくれば許す姿勢、これが田中から人々が離れないのではないかと思います。田中に近い市会議員がよく言っている。「あの野郎田中に砂ひっかけて、平気で田中の家に出入りしているよ」と。私も何度か見てきました。私だったらとっくに追い出していると思うような行動をしても、深くとがめもせずに使っている寛容の精神、立派だと思います。普通は長い問には幹部の何人かは離れていくのが普通ですが、何時も同じ顔ぶれが揃っています。もちろん選挙後、幹部と一緒に外国旅行をしたなどの話を聞きますが、それらは次の選挙のステップとしてまた信頼関係の確認としているようにも思えます。


 入る金も大きいが出る金も大きい。よく歌謡ショーをやるが世話した人に聞くとかなり多額な出費です。正月一日の田中の誕生日の行事も同族的な集団のように思うときがあります。そして、彼らが田中の伝達ですべて動くのですから対立候補にとってはこんなにこわい存在はありません。選挙が近くなると田中はどの候補を支持しているんだと人が注目し、田中の方向が決まると以心伝心で、その方向へ向けていく力、それと掌握力はすごいと思います。しかし各種の選挙で一候補だけでなく、時によって複数の候補の応援をしている塲合がありますが田中軍団はその票分けにある部分に納得しているようです。それは強制的でない、その辺が田中のよいところではないでしょうか。私も支持者を多く持っていますが、選挙によっては、私の支持している候補でない他候補を押してもそれは容認しています。私の選挙に戻ってきてくれるならばよいと考えています。支持者は私の考えですが、4年間10%は離れていくと思います。私は選挙になると離れた10%の倍の20%の獲得に全力をかたむけました。


 田中はよく外国へ行きましたか、お土産は大量で、それらを自分の支持者と幹部に配っていたのは周知の事実です。支持者をこれほど大事にした議員はいないのではないかと思います。この資金源は田中邸に朝早くから訪れる陳情者に交じって訪れる建設業者、宅造業者の頼みを次々とやってやる実力から生まれます。しかしこれらは、市長選、県議選、衆参議員選でも一方の雄として君臨する田中の実力があればこそ出来るのです。田中軍団が解散する条件として、軍団幹部より選挙にもう候補者をもってこないでくれと田中に申し入れたと聞いています。マッカーサーは「老兵は唯消え去る」と言いましたが、私は長い間、田中軍団の幹部の皆さんと知己を得た関係で解散することが、なんとなくさびしい感じがします。


 船橋の政治の流れの中で、田中の名前を借りて当選した多くの議員候補の選挙も今後大きく変わると考えます。それと同時に歌謡ショー、バス旅行等、前近代的な選挙運動の終焉を告げる弔鐘であって欲しいと思います。そして農村型の選挙ではなく近代的な都市型の選挙への幕開けであると思うし、そのようになって欲しいと思う大勢の人がいますが、私もその一人です。


 船橋の政局も群雄割拠の政争が続き安定するまではかなりの期間を有するように思えます。私は政治は資金が必要であると信じます。バブルが弾けた現在、田中ほど力と金があった政治家は船橋を見回してもいないし、景気は低迷しています。


 個人で集める政治資金なぞしれている額です。これからは政党が中心になっていくのか、とも考えますがこれも、保守の多党化をみますと、かつて自民党王国であった船橋も一本化は難しい。


 特に選挙区が第四区になったことにより、千葉県第二の都市船橋市は各党の格好の的ではないでしょうか。そう考えますと田中が自民党船橋支部の運営を自分の資金を提供してまとめていった力量とカリスマ性が自民党支部から消えていくことは今後の自民党の将来大きく影響していくと思います。


 そのように考えると田中軍団の解散が今後の衆参議員の選挙を始めとして続く県議選、市議選に大きく影響することでありましょう。前述しましたように、力弱き立候補者がどれほど田中を訪れ、力を借りたか。これからはそのような候補者は自力で戦い抜かなければなりません。


 平成7年秋の叙勲で千葉県で2人藍綬褒章がありましたが、田中と私でした。千葉県庁知事室で伝達式が行われましたが、知事からこんなことは珍しいと言われました。田中の健康が一日も早く回復することを祈るばかりです。